「プライド」という言葉がありますが、意味は「誇り。自尊心」(『新明解国語辞典』)とあります。では、「誇り」の意味は、「自分の置かれた立場にやましい点は一つもないと自信をいだく(やった仕事は意義があるもので、少しも他人にひけを取るものではないと思う)気持。またそういう気持を起こさせる人(もの)。」(『新明解国語辞典』)とあります。もう一つの「自尊(心)」は、「①自分人を相当な存在であると思いこむこと。②自分という存在に誇りを持つこと。」(『新明解国語辞典』)とあります。
この「プライド」という意味の中には、良い面と悪い面の両方が入っています。「誇り」の中では、人に対して確固たる自信がありますが、「自尊心」となると自惚れや相手を下に見てしまうような意味合いが含まれてきます。よく私たちは、「あの人はプライドが高いからとっつきにくい」など言います。もちろん、その人は自分がプライドが高いとは思っていません。いつもの当たり前のように過ごしているのです。例えば長上職を長年勤めてきた人は、その役目を一生懸命に果たしているだけです。ただ、残念なことにそれが当たり前のようになってしまう傾きがあります。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますが、上に立つ人ほど謙遜さが必要になってくるかのかもしれませんね。
きょうのみことばは、イエス様が「父親が息子に『ぶどう園に行って働いてくれ』と頼む」譬え話の場面です。みことばは、「ところで、あなた方はどう思うか」というイエス様の言葉で始まっています。このことは、この前にイエス様が誰かに話された場面があるはずです。イエス様は、祭司長や民の長老たちに「何の権限があって、あのようなことをするのか。誰があなたに、そのような権威を与えたのか」と尋ねられます。これは、イエス様が神殿で商売をしている人に「あなた方はそれを強盗の巣にしている」と言われて追い出したことを彼らは言っているのです(マタイ21・12〜27参照)。
イエス様は、彼らに対して「ヨハネの洗礼はどこからのものか。天からのもものか、それとも人からのものか。」(マタイ21・25)と質問します。彼らは、それに対してうまく答えきれませんでした。これらの問答があってからイエス様は「あなた方はどう思うか」と言われ彼らに対して譬え話をされるのです。
イエス様は、「ある人に2人の息子があった。彼は長男の所に行き、『息子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。長男は、『いやです』と答えた。しかし、後で思い直し、出かけて行った」と話し始められます。この譬え話の「父親」はおん父のことを指していますし、「2人の息子」はイスラエルの民を指しています。この「ぶどう園」というのは、天の国であり、おん父のみ旨の中ということなのかもしれません。父親であるおん父は、息子たちに「天の国」に来て欲しいと願ったのです。
それに対して長男は「いやです」と答えます。この「長男」は、徴税人や娼婦たちのような、周りの人たちから蔑まれた人のことを表しているようです。ですから、長男が「いやです」と答えたのは、自分たちのような罪人がおん父の所に行くなんて滅相もないと、思ったからではないでしょうか。しかし、「後で思い直し、出かけて行った」というのは、彼らが自分の罪に気づき深いところまで振り返り、【回心】して再びおん父の所に行く勇気を持ったのでしょう。
一方、父親の願いに「お父さん、承知しました」と答えた次男はぶどう園に行きませんでした。こちらの、「次男」は、祭司長や長老を指しているようです。おん父に対して「いやです」と言うことは、彼らにとってプライドが許さなかったのです。しかし、彼らはおん父の所に行こうとはしませんでした。イエス様は、彼らのことを「彼らは口先だけで、実行しないからである。」(マタイ23・3)と言っています。
イエス様は、彼らに「この2人のうち、父親の望みどおりにしたのは、どちらか」と尋ねられます。彼らは、イエス様の譬えが自分たちに向けて話されていることにまだ気づいていません。それで、「長男です」と答えることができたのです。イエス様は、彼らに「……ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた方は彼を信じなかったが、徴税人や娼婦たちはそれを信じたからである。」と言われます。この二つの違いは、「信じるか」「信じないか」ということではないでしょうか。この「信じる」というのは、父親が「ぶどう園に行きなさい」という願いに返事ではなく「行った」ということを意味しているようです。
イエス様は「あなた方はそれを見ていても、悔い改めてヨハネを信じようとしなかった」と言われます。彼らは、徴税人や娼婦たちが回心してヨハネを信じているのを【見ている】のに、プライドが邪魔をして信じることができなかったのです。パウロは、「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方を固執しようとはせず」(フィリピ2・6)と言っています。私たちは、イエス様がご自分が神の子でありながら固執されなかったのに、自分たちのプライドに固執していないかということを振り返ってみるのも時を持つことができたらいいですね。
