1 社会的教え
*「キリストの啓示は、社会生活の諸法則についてのいっそう深い理解に私たちを導きます」。教会は人間の真理に関する完全な啓示を福音から汲み取ります。教会は福音を宣べ伝えるという自分の使命を果たすとき、キリストの代理者として、人間には固有の尊厳が与えられており、自分たちは人間同士の交わりに召されているのだということを説明し、神の英知にかなった正義と平和を実現するためには何をなすべきなのかを教えます。
*教会は、「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときには」、経済的・社会的問題に関する倫理的判断を下します。教会は、地上的共通善は私たちの究極目的である最高善に向けられているものなので、そのための配慮をします。教会は、この世の善益に対して、また社会的・経済的関係において、正しい態度を取るようにと私たちを励まし続けています。
*教会の社会的教えは、教会が聖霊の助けのもとに、歴史的な出来事をキリスト・イエスによって啓示されたことばの全体と照合しながら介錯する度合いに応じて、体系化されていきます。この教えは、信者がそれに従いたいと思うものであればあるほど、善意の人々に受け入れやすいものとなります。
*教会の社会的教えは反省するための原理を提示し、判断基準を明らかにし、行動するための指針を与えます。
*利潤を経済活動の唯一の規範、究極目的とする理論は倫理的に容認できません。過度の金銭欲は不正な結果を生み出さずにはおきません。それは社会秩序を乱す多くの紛争を引き起こす原因の一つです。「生産の集団組織を個人と団体の基本的権利を優先させる」体制は、人間の尊厳とは相対立するものです。人々をまったくの生産手段にしてしまうあらゆる行為は、人間を奴隷化し、拝金主義に導き無神論の拡大に貢献します。イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6・24、ルカ16・13)といっておられます。
2 経済活動と社会正義
*経済活動の発展ならびに生産増大の目的は、人々の必要を満たすことです。経済生活が目指すべきものは、単に生産を増やしたり利潤ないし勢力を増大させたりすることではなく、何よりも一人ひとりの人間、またすべての善良な人間、そして人類共同体全体への奉仕なのです。固有の法則ならびに方法で行われる経済活動は、人間に対する神の計画と調和するために、社会正義に基づきながら倫理の範囲内で行われるべきです。
*人間の労働というものは、神にかたどって造られ、地を支配しながら、人々とともにまた人々のために創造のわざを継続するようにと召されている各々の人格から直接に出てくるものです。したがって、労働は義務なのです。聖パウロも、「働きたくない者は、食べてはならない」(二テサ3・10)といっています。労働は創造主からのたまものと受けた才能とを大事に生かすことです。それはまた、あがないの価値を持つものともなります。人間は、ナザレの職人でありゴルゴタの十字架につけられたイエスと心を合わせて労働の労苦に耐えることによって、何らかの形で御子の贖いの業に協力するのです。人間は、自分が召された活動の中で日々十字架を担いながら、キリストの弟子であることを表します。労働は、現世的事物を聖化する手段、この世の現実をキリストの霊において活性化するものとなりえるものなのです。
*人間は労働をしながら、自分の本性に刻まれた能力の一部を働かせ、完成させます。労働の第一の価値は、労働の主体であり目的である人間そのものにあります。労働は人間のためにあるもので、人間が労働のために存在するのではありません。一人ひとりの人間は労働に携わって自分と家族の生計を立て、人間共同体に奉仕することができるようにしなければなりません。
*一人ひとりの人間が経済上の創意を発揮する権利を持っています。各自が自分の才能を正しく用いてすべての人が豊かになるための貢献を行い、その努力の正当な実りを取得するのは正しいことです。ただし、共通善のために合法的権威によって定められた規則には従わなければなりません。
