序)「殺すな」(マタイ5・21)という掟についての説明をなさるにあたって、キリストの心の平和を教え、残忍な怒りや憎悪が罪であることを明らかになさいます。
1 平和
*怒りは仕返しの願望です。「罰を受けなければならないような悪事を働いた者に対して仕返しを企てることはゆるされません」が、「悪癖の矯正と正義の維持のために」償いを課すことは推奨されます。もし、怒りのあまり隣人を殺したり、重傷を負わせたりすることを熟考の上で望むまでになれば、それは甚だしく愛に背くものであり、大きな罪となります。キリストは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタ5・22)と言っておられます。
*意図的な憎しみは愛とは正反対のものです。隣人を憎み、熟考の上でその人の不幸を望むならば、罪となり、熟考の上で隣人に大きな危害を加えたいと望むならば、大きな罪となります。「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者ために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタ5・44~45)
*人間のいのちの尊重や成長のためには平和が必要です。平和とは単に戦争がないということだけではなく、また敵対者間の力の均衡を図るということだけでもありません。地上で平和が得られるのは、各個人の善益の擁護、人間相互の自由な交流、個々人ならびに諸民族の尊厳の尊重、兄弟愛の熱心な実践があってのことです。平和は「秩序の静けさ」です。それは正義が造り出すものであり、愛の結果なのです。
*地上の平和とは、メシア的「平和の君」(イザ9・5)であるキリストの平和の写しであり、実りです。キリストはご自分の十字架の血によって、ご自分の中で憎しみを滅ぼし、人々を神と和解させ、ご自分の教会を全人類の一致、神との一致の秘跡となさいました。「実に、キリストは私たちの平和であります」(エフェ2・14)。彼は「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5・9)と断言されるのです。
*暴力による流血行為を放棄し、人権の擁護のために、最も弱い人々のためにも可能な防御手段を用いる人々は、福音的愛のあかしをしていることになります。ただし、それは他の人々ならびに社会の権利や義務を損なわない行為に限られたものでなければなりません。これらの人々は、破壊や死を伴う暴力を用いることが身体的・道徳的にどんな危険なものであるかを明らかにしているのであり、それは正しいことなのです。
2 戦争の回避
*第五の掟は、人命を意図的に抹殺することを禁じます。戦争というものは不幸や不正をもたらすものなので、教会は私たち一人ひとりに、古くから戦争に悩まされている私たちが神の慈しみによってその状態から解放していただけるように、祈り、行動するよう熱心に勧めています。
*一人ひとりの国民および為政者は、戦争を回避するために努力しなければなりません。「戦争の危険が存在し、しかも十分な力と権限を持つ国際的権力が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を講じた上であれば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできないでしょう」。
*軍事力による正当防衛を行使できるための厳密な条件というものが、真剣に検討されなければなりません。そのような重大な決定を行う際には、倫理的正当性の厳格な条件に従う必要があります。
*教会の教えならびに人間理性に基づけば、戦争中も道徳律が常に守られるべきです。「不幸にも戦争が起こった場合、そのこと自体によって、敵対する国家家においてはすべてがゆるされることになるわけでもありません。」
*「都市全体または広い地域をその住民とともに無差別に破壊することに向けられた戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、ためらうことなく固く禁止すべきです」。現代戦争が危険なのは、化学兵器、特に原子力兵器や生物ないし化学兵器の保有国に、そのような犯罪を犯す機会を与えるということです。

