2025年6月30日、パウロ家族は忘れがたい巡礼の旅を体験しました。総本部の聖堂から「城外の聖パウロ大聖堂」へと向かい、「異邦人の使徒」聖パウロを熱く讃えながら歩んだのです。
祈りと歌声、そして4つのステーションに彩られたこの道のりは、聖パウロが世界にもたらした御言葉に根差した、希望と一致の霊的体験となりました。
壮麗な大聖堂の回廊に辿り着いた参加者たちは、聖なる扉をくぐり、和解のひととき、洗礼の約束の更新、聖水の祝福といった、深い霊的時間に導かれながら、「現代のパウロ」として生きる召命を新たにしました。礼拝堂に至り、聖体の前で歌と祈りに心を合わせながら、パウロ的カリスマをあらためて確認する時となりました。
説教では、聖パウロは、神の啓示によってキリストと完全に結ばれた人生の模範として示されました。福者ヤコブ・アルベリオーネは、彼を「メッセンジャー」と呼びました。その使徒的な炎はいまもなお燃え続けています。彼のように「すべての人のためにすべてとなる」者の中に、キリスト—「道・真理・命」—の光は生き続けており、その霊は今もパウロ家族の宣教に輝きを与えています。
典礼は聖パウロの墓前での祈りをもって締めくくられました。そこでは、恵みのうちに、希望のうちに、そして喜びをもって福音を告げ知らせる生き方への新たな決意が表明されました。
霊において一つとなった心をもって、パウロ家族は証ししました。聖パウロはもはや過去の思い出ではなく、いまも生きておられ、私たちを導き、心に炎を灯し続けているのだと。
副総長による説教
聖パウロの祭日 2025年
イザヤ書49章3節、5–6節/ガラテヤ書1章11–20節/マタイによる福音書10章16–22節
パウロ家族の創立者であり、聖パウロの熱心な崇敬者でもあった福者ヤコブ・アルベリオーネはこう記しています。
「聖パウロは、神の師であるイエスを全きかたちで知る弟子である。彼はその全生涯をもってキリストに生き、教え、心、聖性、人間性と神性、そのすべてを深く探り尽くしていった。彼はキリストを師として、供え物として、祭司として見つめ、『道・真理・命』としてご自身を定義されたキリストを、完全なかたちで私たちに示してくれた」(AD 159)。
このキリストへの深い知識はどこから来たのでしょうか?
私たちが今日耳にしたガラテヤ書に、聖パウロ自身の答えがあります。
「神は…わたしを母の胎にあるときから選び、その恵みによって召し出してくださった。そして、異邦人に御子を告げ知らせるために、その御子をわたしのうちに現すことをよしとされた」と彼は語ります。さらにこう付け加えます。「わたしはこの福音を人から受けたのでも、教えられたのでもありません。イエス・キリストによっての啓示を通して受けたのです」と。
神の御計画において、タルソス出身のサウロは、異邦人への使徒、民の光、選ばれた器、福音の奉仕者として予定されていました。今日の福音に響いたイエスの言葉—「語るべきことはそのとき授けられる。語るのはあなたがたではなく、あなたがたのうちで語る父の霊である」—この言葉がまさにパウロの生きた現実そのものでした。
私たちは聖パウロを偉大な使徒として仰ぎます。宣教者、神秘家、キリストの兵士、雄弁家、書簡の著者としての彼を讃えます。そして、彼の天における強力な執り成しに希望を託します。その輝かしい模範に心震えながら、同時に、私たちは彼の道を歩む者として、自らの責任の重さにも気づかされます。
しかし、異邦人の使徒への敬意にとどまっていてはなりません。彼の足跡をたどり、彼の使命を生き続けることが、私たちに託された道です。
神が私たちのうちにも啓示してくださることを信じましょう。私たちもキリストを知っているではありませんか? 私たちも福音を受けたではありませんか? それは人間のつくった教えではなく、現に生きておられるイエス・キリストとの出会いの中で与えられたものなのです。
私たちも聖霊を受けているのです。
ならば、「今を生きる聖パウロ」となることは、単なる願望や夢ではなく、人生のどの瞬間においても実現可能な、私たち本来の召命なのです。
「希望は失望に終わることがない。なぜなら、神の愛が聖霊によってわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)という、父聖パウロの力強い言葉を思い起こしましょう。
そして、あの招きに真摯に応えましょう。
「わたしがキリストのまねをしているように、あなたがたもわたしのまねをしなさい」(一コリント11・1)。
そのとき、パウロの霊は、あなたのうちに、いま生きるのです。