ある映画のセリフの中に「家族には勝てない」という言葉がありました。これは、介護ヘルパーをしていた彼女が、受け持ちのお年寄りの世話を一生懸命していても、帰宅した家族の顔を見る時のその方の顔の表情がヘルパーである自分とは違うと感じる、ということでした。これは、やはりお年寄りと家族との絆、愛情というものが顔に出るのだということのようです。
このことは、私たちと三位一体の神様との【絆(関係)】と言ってもいいのではないでしょうか。三位一体の神様は、私たちが気づかなくても私たち一人ひとりを心から愛して下さっています。私たちは三位一体の神様との出会いを、喜びを持って感じることができたらいいですね。
きょうのみことばは、羊飼いであるイエス様と羊(私たち)との関係を表している場面です。ヨハネ福音書の10章では、イエス様が羊たちの【門】であったり、【羊飼い】であったりするということが書かれてあります。羊たち(私たち)は、囲いの【門】であるイエス様によって夜の間、強盗(敵)から守られ、日中は、【羊飼い】であるイエス様によって狼(敵)から守られています。
きょうのみことばの少し前では、イエス様の話を聞いたユダヤ人たちがイエス様のことを「悪魔だ」という人たちと「メシアである」という人たちの場面があります。それでユダヤ人たちは、エルサレムの神殿を歩いていたイエス様を取り囲んで「いつまでわれわれをじらすのか。あなたがメシアなら、そう言ってくれ」(ヨハネ10・24)と詰め寄ります。イエス様は、彼らに対して「あなた方は信じない。わたしの羊ではないから」(ヨハネ10・26)と言われます。
このような流れからきょうのみことばが始まるのです。きょうのみことばは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という節から始まっています。この言葉は、「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは、自分の羊をそれぞれの名で呼んで連れ出す」(ヨハネ10・3)でもイエス様が人々に話されています。このイエス様の声は、肉声という【声】という意味もありますが、私たちの心に響く【霊的な声】という意味でもあります。私たちは、心に響くその声が「イエス様からの【声】」なのか、「敵からの【声】」なのかを聞き分ける耳を持つ必要があります。この「聞き分ける」というのは、【識別】と言ってもいいでしょう。
さらに、イエス様が言われる【わたしの羊】というのは、イエス様のことを信じたユダヤ人のことを指していますが、私たち一人ひとりのことでもあります。このことは、使徒行録の中で書かれている、パウロとバルナバがピシディアのアンティオキアで人々に話をした時に、町中の人たちがイエス様の話を聞こうとして集まった人と、それを妬んだユダヤ人たちのことを思い起こされます(使徒行録13・44〜45参照)。パウロとバルナバがイエス様のことを話して集まって来た異邦人は、まさに、イエス様の声を聞き分けて集まって来た【羊】だったのです。
イエス様は、「わたしも彼らを知っており、彼らもわたしに聞き従う」と言われます。イエス様は、羊である私たちをただ単に面識があって「知っている」というだけではなく、私たち1人ひとりの性格、善いところも弱いところも全てをご存じと言われています。これは、イエス様が私たちに対してのアガペの愛なのです。羊である私たちは、その愛に応え、イエス様の声を聞き分けて従うという使命をいただいています。
イエス様は、「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言われます。イエス様はご自分に従った人たちに対して【永遠の命】を約束されます。この【永遠の命】というのは、私たちが亡くなっておん父との宴に入ることでもありますが、それだけではなく、おん父と一致した状態と言ってもいいでしょう。イエス様は、ご自分に聞き従った人たちに対して、「誰もわたしの手から、彼らを奪い去りはしない」と言われます。羊飼いであるイエス様は、私たち一人ひとりを【敵】の手から守ってくださるのです。
イエス様は、ご自分の声を聞いて聞き従った私たちに対して、「わたし父がわたしにくださったものは、他の何ものにも勝るものであり、誰もそれをわたしの父の手から奪い去ることはできない」と言われます。私たちは、イエス様の声を聞き従ったのですが、それよりも前に、まずおん父が私たちをイエス様に引き合わせてくださったのです。イエス様は、私たちのことを「他の何ものにも勝る」と言ってくださいます。この言葉も、イエス様のアガペの愛です。
イエス様の声を聞き分けて、イエス様に聞き従った私たちは、イエス様からもおん父からも【敵の手】から【守られている】のです。イエス様とおん父の絆は、同じように私たちとの【絆】と言ってもいいのです。イエス様は、「わたしと父とは一つである」と言われます。私たちは、イエス様の声を聞き分け、この【愛の絆】の中で生かされ続けることができたらいいですね。