今日の第二朗読の「ヨハネの黙示録」7章では「小羊」、福音の「ヨハネ福音書」10章では「羊」が使われています。「小羊」と「羊」の違いは単純に「子猫」と「猫」、「子犬」と「犬」の違いにすぎないと考えがちですが、そうでもないようです。
ヨハネ福音書で「羊」は18回、「小羊」は1回(21・15)、一方、ヨハネの黙示録で「羊」は1回(18・13)、「小羊」は28回登場します。ヨハネ福音書では「羊」、ヨハネの黙示録では「小羊」が主に用いられています。「わたしは善い羊飼いである。善い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)とあり、羊は「民」を、羊飼いは「キリスト」を示しています。羊が羊飼いに従う様子は、民がキリストに従う様子です。一方、「小羊」について調べると、「ほふられた小羊」(黙5・6)、「小羊の血で打ち勝った」(黙12・11)、「小羊は主の主、王の王」(黙17・14)とあるように、キリストが十字架上でいけにえとしてささげられ、血を流されたことを想起します。このことから「小羊」は「キリスト」を指すことになります。今日の第二朗読でも「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり」(黙7・17)とあるように…。これらのことから、「羊」と「小羊」の違うが分かるのではないでしょうか。
今日の福音で「羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハ10・27)とあります。羊と羊飼いとの間の親近感が見えてきます。羊はもともと弱い性格、だれかにすがるような性格を持っています。それでいて主人の声をしっかりと識別することから、とても従順な動物と言えます。このことから、羊である民は、羊飼いであるキリストの声をよく聞き分けることを意味します。同様に私たちも、羊としてキリストの声を聞き分ける気持ちを持たなければなりません。自分の弱さ、誰かにすがるような気持ちを持っていれば、それは容易なことでしょう。自分の力だけで何でもできると思う高慢さがあれば、キリストの声が聞こえません。種々の場面でキリストの声に耳を傾けたいものです。