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おうち黙想

喜びの神秘 教皇フランシスコとともに歩くロザリオの祈り

 教皇フランシスコは、信仰とは「応答すること」だと繰り返し語ってきました。
 神の呼びかけに、理解よりも先に「はい」と応える自由。その姿勢は、マリアの受胎告知に始まる「喜びの神秘」と深く響き合っています。
 彼自身も、貧しさ、沈黙、驚きの中で語られる福音に応え続けた一人の信仰者でした。
 この神秘を祈るなかで、マリアの歩みをたどりながら、教皇フランシスコが信じ抜いた「神のまなざしのやさしさ」に、私たちも心を開いていきたいと思います。

喜びの神秘

第一の神秘:マリアの受胎告知

 「信仰とは、神の呼びかけに『はい』と答えること。それは、すべてがわかるからではなく、神が信頼できる方だからです。…マリアの『フィアット(然り)』は、理解の産物ではありません。それは神に心を明け渡す自由の行為でした。…神は驚かせるのが好きな方です。わたしたちの日常のただ中に、思いがけず訪れ、その小さな応答のうちに、世界を変えるのです。」
 — 2018年3月25日 枝の主日(青年との集い)
 この神秘におけるマリアの「はい」は、教皇フランシスコが繰り返し語る「信頼に根ざした自由」の最も純粋な形です。
 理解の先に信じるのではなく、理解できない状況の中で信じてゆだねる。その姿勢は、教皇自身が生涯をかけて模範を示し続けてきたものでした。
 祈り:
 主よ、マリアの「はい」の中に、教皇フランシスコの信仰の源を見ることができます。
 彼が生涯をかけて応えてきた神の呼びかけに、今、あなたの永遠のまなざしと安息をもって応えてください。
 彼の応答が、私たちにも自由と信頼をもたらしますように。

第二の神秘:エリサベト訪問

 「マリアは“すぐに”エリサベトのもとへ向かいました。そこには、祈るだけでは終わらない、動く信仰、出ていく信仰があります。
 教会もまた、外へと出ていくべきです。とどまる教会は病む。わたしたちは、誰かに向かって歩き出すとき、信仰を本当に生き始めるのです。」
 — 『福音の喜び』 46
 「出ていく教会」は、教皇フランシスコの教導の核心です。エリサベト訪問のマリアは、その最初の姿として読まれます。
 信仰とは、内面の感情ではなく具体的な動き。彼の霊性は、いつも「誰かの必要に向かって歩く」ことを信仰の基準としてきました。
 祈り:
 出会いの神よ、誰かのもとへと出かけていったマリアの姿に、教皇フランシスコの生き方を重ね合わせます。
 その出発が、今はあなたのもとへの旅路へと変えられました。
 彼の果たした使命を感謝し、その霊がわたしたちの歩みに力を与えてくれますように。

第三の神秘:ベツレヘムでの主の降誕

 「神は、貧しさと無力の中に来られました。
 私たちがクリスマスを祝うというのなら、それは“貧しい方”を迎えることです。…飼い葉桶は、神が人間の貧しさに完全に寄り添うという、驚くべき選択のしるしです。
 そこにこそ、神の偉大さが現れるのです。」
 — 2015年 クリスマス・ミサ
 フランシスコのキリスト論は、飼い葉桶と十字架に貫かれています。
 神の力は弱さの中に宿る。貧しさ、取るに足らぬ場所にこそ、神の栄光が現れる。
 それは教皇が語り続けた「優しさの神学」の原点であり、彼の言葉の奥に響いていた「神の沈黙」の姿です。
 祈り:
 ベツレヘムの飼い葉桶の傍らで、教皇フランシスコが何度も見出してきた神の臨在に、今、彼の魂も包まれていますように。
 小さき者の中におられるあなたのまなざしが、彼に永遠の安らぎを与えてくださいますように。

第四の神秘:神殿への奉献

 「マリアとヨセフは、ただ律法に従っただけではありません。彼らは、それを“心を込めて”生きました。
 真の信仰とは、形式を守ることではなく、“そこにいのちを通わせること”です。…わたしたちは形式を通して神に出会うのではなく、神との出会いによって形式が命を持つのです。」
 — 2014年 奉献生活者の日の説教
 この神秘は、教皇フランシスコの「律法主義への問い」と深く響き合います。
 彼にとって、信仰は「守るもの」である前に、「生きるもの」。儀式の中に込められた心こそが神に届く——その霊性の中で、彼は教会のあり方を根本から問い直し続けました。
 祈り:
 神殿に捧げられたイエスの姿を仰ぎ見ながら、あなたに捧げられた教皇フランシスコの魂を、いま永遠の神殿へと迎え入れてください。
 彼がこの地で生きた信仰のかたちが、天の喜びとなって受け取られていますように。

第五の神秘:神殿でのイエスの発見

 「マリアとヨセフは、三日間探し続け、ついに神殿でイエスを見いだしました。…しかし彼らは、イエスの言葉を“理解できなかった”。
 それでもマリアは、その言葉を“心にとどめた”のです。
 信仰とは、すべてを理解することではありません。信仰とは、神のことばを“保ち続ける”ことです。」
 — 2021年 聖家族の祝日
 教皇フランシスコは「信仰とは、問いを持ち続ける勇気」だと繰り返してきました。
 神の言葉はしばしば説明できず、むしろ「心にとどめる」ことを求めてきます。
 この神秘は、まさにフランシスコの霊的姿勢——不完全な理解の中でも神に留まる決意——を象徴しています。
 祈り:
 主よ、答えの見えない問いの中でも、あなたを見失わなかった教皇フランシスコの信仰を受け取り、彼の魂をあなたの完全な光のうちに迎え入れてください。
 私たちもまた、理解を超えてあなたに従う心をいただけますように。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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