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みことばの響き

遺言 復活節第6主日(ヨハネ14・23~29)

 今日の箇所はイエスが十字架につけられる前に、弟子たちに語りかけた言葉です。イエス自身、死を目前にして語っていますので、それは遺言のようなものです。

 2009年9月3日、約1年9ケ月の闘病の末、母が亡くなりました。クリスマス前の2007年12月23日にクモ膜下出血となり、翌日、手術を受けて意識は戻りました。しかし、徐々に体力が落ちていき、最後は目を閉じる日が多くなっていきました。

 まだ元気だった2007年10月のことです。病気になる2ヶ月前のことですが、私は一週間くらいの休暇を取って郷里の松浦市御厨町でノンビリ過ごしていました。東京へ帰る数日前、不思議なことに母は、私が生まれた時のことについて話してくれました。後になって考えれば、それは私への遺言のようなものでした。

 私が生まれる頃、母は農業に従事し、野菜を収穫しては、朝6時頃、(当時の)国鉄・御厨駅前でそれを売ったり、時には天秤棒に野菜をかついで10キロ、15キロの道のりを歩き、江迎や鹿町などで行商していました。当時、父は馬車引きの仕事をして、お客さんを乗せてはあちこちへ連れていく。今で言えばタクシーのようなものでしょうか。やがて母は私をお腹に宿し、それでも仕事を続けました。一家を養っていくためにはそうせざるを得なかったのでしょう。私が生まれたのは1月26日ですが、その一ヶ月前の12月末まで行商をしたとのことでした。すでにお腹は大きくなっていましたが、それでも天秤棒をかついで…。そんな母に「父が馬車引きをしていたので、馬車に乗せてもらえばよかったのに」と言ったら、意外な答えが返ってきました。「ケンジ神父、男には分からんかもしれんけど、馬車に乗ったらガタガタするとよ。そしたらお腹の子供が早く産まれるかもしれんけん、馬車には乗らなかった。自分のペースでゆっくりゆっくり歩き、疲れたら休むといった具合にね」と。そんな話を聞きながら、自分がどんなに大事にされて生まれてきたのかが分かり、感激しました。

 イエスが語る遺言は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。イエスの思いと自分自身の思いとを重ね合わせると、今日のみことばは心に響いてきます。

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