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カトリック入門

【カトリック入門】第99回 原城跡【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

 島原半島の中央にある雲仙地獄やその近くのキリシタン殉教碑などを見ると、温泉の熱湯による殉教の壮絶さを身近に感じるが、原城跡を訪問すると、農村ののどかな風景、有明海の穏やかな波が目に入ってきて、戦火の荒波を感じにくいかもしれない。しかし、原城跡は、一六三七年に起きた島原・天草一揆(島原の乱)の舞台となった壮絶な所。
 この城は海岸に面した丘に築かれ、本丸、二ノ丸、二ノ丸出丸、鳩山出丸、天草丸、三ノ丸などから構成されている。初めてこの城跡を訪問した時、本丸だけを見ていたためずいぶん狭いなあと感じたが、三ノ丸あたりまで歩いてみると、周囲が四キロあり、周囲が三・二キロのバチカン市国より少々大きい。
 原城は有馬氏の本城であった日野江城(前号で掲載)の支城として、一五九八年から一六〇四年にキリシタン大名の有馬晴信が築いた城。本丸は石垣で造られ、櫓台、虎口(出入口)があり、瓦葺きの建物があった。石垣を見ただけでも、城の規模が想像できる。一六一二年に有馬晴信が失脚し、一六一四年にはその息子の有馬直純が日向へ転封され、一時期、幕府直轄の天領となり、松倉氏の支配となる。一六一八年の島原城築城開始に伴い、この城は廃城となった。その後、一六三七年から一六三八年にかけて起こった島原・天草一揆で、この原城が一揆勢力の籠城(ろうじょう)の拠点となっていく。
 日本史上、最大の一揆と言われる「島原・天草一揆(島原の乱)」はなぜ起こったのだろうか。島原半島は、有馬晴信のキリシタンに対する保護により、信者が急激に増えていく。しかし、幕府は一六一四年、全国にキリシタン禁令を発令し、それに追い打ちをかけるかのように、有馬氏の後に領主となった松倉氏は、幕府からの指示もあり、領民に対して重税を課し、キリシタンを雲仙地獄の熱湯に投げこむなど、かなり厳しい弾圧を行った。
 また一六一八年からは、石高に見合わない島原城の築城や江戸城改築のため、領民に対する負担がかなり重くなり、さらに飢饉も重なって、領民は困窮を極めた。こうした状況の中、年貢を納められない領民に対しては、壮絶な拷問や処刑が行われることになった。
 一六三七年十月、苦しみに耐えかねた領民の不満は一気に爆発し、ついには一揆となり、島原城を攻めたが落城までには至らなかった。この一揆は天草地方の領民と示し合わせたもので(島原と天草の領民が湯島<談合島>で蜂起を談合)、やがて島原と天草地方の一揆勢も合流し、廃城となっていた原城に籠城。その数は約二万数千人(別の資料では三万七千人)にのぼり、天草四郎時貞がリーダーとなった。
 一方、鎮圧にあたった幕府の軍勢は、最終的には十二万となり、一揆は四か月にも及んだ。一六三八年二月、兵糧攻めの末、幕府軍の総攻撃を受けて一揆は終結。この戦いで一揆勢の大多数が命を落とし、幕府軍も一万人に近い死傷者を出した。これは江戸時代における最大の一揆で、その後、鎖国政策が確立するなど、幕府の支配政策に大きな影響を与えた。(南島原市のパンフレットを参照)
 一九二二年、原城跡の発掘調査が始まった。本丸跡では、メダイ、ロザリオの玉、鉛の銃弾を利用して作った十字架などが出土した。正門付近では一揆軍の人骨が大量に見つかっている。幕府軍は一揆軍の遺体を通路に集め、石垣を崩して巨石を落とし、その上に土をかぶせて完全に封印していった。かつて長崎の日本二十六聖人記念館の館長をしていた結城了悟神父が語っていたことだが、発掘した際、頭部の所から火縄銃の弾(たま)をメダイに加工したものが出土したという。亡くなった信徒の中には「聖体の組」の人もいて、メダイを聖体に見たてて亡くなったのだろう。「聖体の組」の陣中旗のコピーが島原教会に展示されている。
 一揆の後、原城跡の土地は忌み嫌われ、手つかずの状態となった。約一三〇年後、開墾が始まり、あちこちから人骨が出土した。一七六六年、集められた骨を埋葬し、願心寺の住職と地元の人々が地蔵を立てて供養した。それは「ほねかみ地蔵」と呼ばれ、原城本丸の正門跡近くに建てられている。
 原城跡が世界文化遺産になる前まで、本丸跡近くまで車で行くことができたが、今では三の丸の所にある大手口駐車場に車を置き、十分ほど歩いて行くか、あるいはシャトルバス(無料)が出ているので、それを利用することもできる。
 また原城跡から車で数分の所に有馬キリシタン遺産記念館がある。ここには、原城跡を中心とするキリシタン関連のものが展示されているので、そこに立ち寄るのもよいだろう。
 また原城跡から口之津へ行くと、天草へ行くフェリー乗り場や南蛮船来航の地があり、さらに加津佐まで行くと、コレジオ・セミナリヨ跡などを見ることもできる。

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