書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

伝統的釈義と現代の釈義の相克

翻訳するとは ?――伝統的釈義と現代の釈義の相克 <追記>

 フランシスコ会聖書研究所訳の聖書が刊行されて早くも十数年経ちました。その間、2017年に新改訳2017聖書、2018年には聖書協会共同訳の旧約・新約聖書が、また田川健三氏の個人訳新約聖書が刊行されたこともあって、当研究所訳聖書も数多くある聖書翻訳の一つとみなされるようになってしまったとの思いも生ずるようになっていました。そのような時でした、出版の労を取ってくださったサンパウロの鈴木師から改めてフランシスコ会聖書研究所訳の利点を知ってもらうことを企画したいとのお言葉をいただき、聖書刊行の後、数年の間に話したり書いたりしたものを提供して、お役に立つなら自由に使ってくださいとしてお渡ししました。それがサンパウロのホームページのコラム欄に「伝統的釈義と現代の釈義の相克」というタイトルで掲載されました。これを通してフランシスコ会聖書研究所訳聖書に興味を持っていただけたならまことに幸いなことであり、分冊のかたちで刊行した先輩たちもさぞや喜んでくれると思っております。

 この雑文を書く気になったのは、そのお礼もありますが、最近になって、翻訳に関してある思いを抱いたことがあり、それを分ち合いたいと思ったことにあります。それはアメリカのホーク・ソングと言われる「朝日のあたる家」を聞いてのことです。この曲を初めて聞いたのは、私がフランシスコ会の志願者として福岡で過ごしていた時のことでした。当時の志願者担当の司祭はギターが好きで、当時はやっていたホーク・ソングをよく弾き語りをしておられました。そのとき耳にしたのがジョーン・バエズの歌った「朝日のあたる家」でした。その後、この当時の歌を聞き返すこともなく近年に至りました。数年前に演歌歌手のちあきなおみが歌っているのを聞き、ひどく感動しました。そして歌詞に興味を惹かれました。それが次に掲げるものです。

あたしが着いたのはニューオーリンズの
朝日楼という名の女郎屋だった
愛した男が帰らなかった
あん時あたしは故郷を出たのさ
汽車に乗ってまた汽車に乗って
貧しいあたしに変わりはないが
時々想うのはふるさとの
あのプラットフォームの薄暗さ
誰か言っとくれ妹に
こんなになったらおしまいだってね

 この歌詞は浅川マキによるものです。彼女はこれを「訳詞」とせず「作詩」と表記したとのことです。確かに英語の本文と比べると忠実な翻訳とは言えません。英語の歌詞はいろいろあり、ボブ・ディランとかアニマルズら男性が歌うバージョンとバエズら女性が歌うバージョンがあるようです。どちらのバージョンにもさまざまな違いがあるようです。ここでは私が最初に聞いたバエズ版を掲げることにします。

The House Of The Rising Sun” (Rising Sun Blues)
 
There is a house in New Orleans,
They call the rising sun.
It’s been the ruin for many a poor girl,
and me, oh Lord, I’m one.
 
If I had listened to what my mother said,
I’d have been at home today,
But I was young and foolish, oh, God,
let a rambler lead me astray.
 
Go and tell my baby sister
Never do like I have done,
But to shun that house in New Orleans
That they call the Rising Sun.
 
I’m going back to New Orleans
My race is almost run;
I’m going back to spend the rest of my life
Beneath that Rising Sun.

 今回これを取り上げますのは、訳の忠実さを問題とするではないので邦訳を掲載するのは止めておきます。長さに注目してみましょう。浅川バージョンは、忠実な翻訳を意図としていないことは、先に言及したように「作詩」と表記していることからも確かでしょう。非常に短くなっています。では内容としてはどうでしょう。わずかな言葉ですが、オリジナルの大筋は把握されています。一人の女性の人生がきちんと歌われています。勿論、歌われるものですから言葉だけではなく、歌い手の醸し出す雰囲気、表情、所作が加わります。この曲は日本でも大勢の歌手が歌っているようです。山口百恵、ザ・ピーナッツ、ピンク・レディといった歌手が歌っていることを今回初めて知りました。しかし、浅川マキとちあきなおみの歌は「娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌」として群を抜いて見事なものといえると思います。

 一連の原稿の中で典礼用の詩編・賛歌の翻訳に関して、本文の内容が活かされていないと指摘したことがありました。勿論、聖書のように一言一句忠実に引用され、それをもって論議が展開されるようなものの場合は、一つひとつの言葉が大切にされ、一つの解釈を押し付けるのではなく、いわば「開かれた」翻訳が望ましいと言えるでしょう。それは聖書に限らず、私がこれまで学び続けてきた教父たちの著作の翻訳に関しても、また近年手掛けたアシジの聖フランシスコに関する諸文書の翻訳に関しても言えることだと思っています。

 三世紀の前半に活動したオリゲネスの『諸原理について』は私の最初の翻訳書であり、私の学徒としての出発点になるものです。その翻訳は2020年に帰天されたネメシェギ師のご指導のもとでなし遂げられました。そのとき、よく口にされたのは「原文の同じ単語はできるだけ同じ日本語で翻訳するのが望ましい」、「注を付さなければ分からない翻訳はよくありません」という言葉でした。

 ところで『諸原理について』という著作はギリシア語で書かれたものですが、その全貌を知るには、一部を除いて、398年にルフィヌスという人物によってなされたラテン語訳によるほかはありません。さて、そのラテン語訳ですが、訳者自身が相当苦労したことが分かります。例えば「ロゴス」というギリシア語です。ルフィヌスは「言葉と理性」と二語に翻訳しています。またオリゲネスはcreator(創造主)とともにギリシアの哲学者が用いる「デミウルゴス」という語も用いています。こちらも「創造主」と訳すことも可能です。小さなことを気にしだすといろいろ引っかかることがでてきます。例えば、「聖書」に言及するにあたっても必ずしも統一した表記になっていません。Sanctae scripturae, divinae scripturae, divinae litterae, 更にはlitteraeとだけの場合もあります。これを訳し分けした方がよいのか、それとも「聖書」で統一してよいのか、いまだに解答を出せずにいます。

 さらに、やっかいなことがあります。古代教会の神学上の論争において、一つの同じ語が別々の意味で用いられていることです。その典型的な例が「ウシア」「ヒュポスタシス」というギリシア語です。「ウシア」という語はギリシア語聖書ではルカ福音書の有名な「放蕩息子の譬え」で「財産」の意味で用いられているだけです(15:12)。325年のニカイア公会議で採択された信条に取りいれられた「ホモウシオス」という語は「ウシアを等しくする」との意味ですが、ウシアはヒュボスタシスと同義語とも解されていました。論争を経て「ウシア」は本質を、「ヒュボスタシス」個別存在を意味すると解明されます。つまり「ウシア」は「人間」を、「ヒュボスタシス」「ペトロ」「パウロ」を指すと解するようになります。その後の論争でも同じようなことが起きています。すると後代に解明された用語を先取りして訳語として用いることは避けた方が良いことになります。他方、ギリシア語あるいはラテン語原文を手にしない人のことを考えるとそれぞれが使い分けられたり同義語とされていることが分かるような翻訳が望ましいともいえるでしょう。ここに文芸書と古典となった学術書では翻訳の手法には違いがあると言えるのではないでしょうか。

 さて、聖書の翻訳です。問題は聖書は個々人が手に取って読むだけではなく、ミサの中での朗読、答唱詩編として、また「教会の祈り」の詩編として典礼祭儀に用いられ、特にメロディをつけて歌われるということです。聖フランシスコの著作、あるいは死後まもなくして書かれた「伝記」類の翻訳刊行にかかわって分かったことですが、この時代(12世紀)には現代の私たちのように聖書を手に取って間違いのないように引用するというよりも、典礼祭儀に参加して耳から入った聖書の言葉をマリアのように「心に留め、思い巡らしていた」(ルカ2:19)その言葉が祈りのさいに、日常生活において、心からほとばしり出たと言ってよいでしょう。

 また、メロディーに乗せて歌うということは耳からも入るということで、記憶に残るものとなっていると言えるでしょう。30年以上にわたって歌われてきた『典礼聖歌』の典礼委員会訳の詩編の強みがここにあると言えるでしょう。かつて典礼用聖書の翻訳が必要であると言われました。このところの相次ぐ聖書の出版に、特にエキュメニカルな新共同訳が出たことで、もうこれ以上の翻訳は必要ない、同じ聖書を用いて礼拝式が行なわれることの重要性がうたわれたためでしょうか、いつしかその声も消えたように思われます。

 「朝日のあたる家」を聞いて、逆に典礼用聖書があってもいいのでは、いえ、むしろ必要である、との思いが浮びました。この場合、逐語訳とは別の課題を背負うことにもなります。原文に語られている内容から離れることなく真意を汲み取り、簡潔に表現することです。これは至難の業と言えます。このためには洞察力と創造力を働かせなければなりません。だからと言ってフランシスコ会聖書研究所訳注の聖書は必要ないというのではありません。むしろなおさらに必要であると言えると思います。オリジナルな本文を確認するためだけではなく、「天地の続くかぎり、律法の一点一画も消え失せることはない」(5:18)と言われる、汲み尽くすことのない聖書の内に秘められた神のみ言葉の豊かさを味わうためにも有益であると確信しています。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
小高 毅

1942(昭和17)年、韓国京城(現ソウル)に生まれる。上智大学大学院神学科博士課程修了。この間、ローマのアウグスティニアヌム教父研究所に留学。カトリック司祭、フランシスコ会士。

  1. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第3回)

  2. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第2回)

  3. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第1回)

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP