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訳文の違いから聖書を味わい直す

第2回 神の子は「肉」となった?――訳文の違いから聖書を味わい直す

聖書の「フランシスコ会聖書研究所訳」と「新共同訳」の訳文の違い

第2回 神の子は「肉」となった?(ヨハネ1・14)

み言葉であるキリストは「肉」となったのか、「人間」となったのか?
 聖書の「フランシスコ会聖書研究所訳」と「新共同訳」の「訳文の違いから聖書を味わい直す」このコラムの第2回目は、クリスマスが近づいていることもあり、ヨハネ福音書1・14を取り上げましょう。これは、主の降誕の祭日の日中のミサに朗読される箇所の中の一節です。

 新共同訳はこの箇所を次のように訳しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

 一方で、フランシスコ会聖書研究所訳の訳文は次のとおりです。
 「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった」。

 大きな違いは、新共同訳がみ言葉が「肉」となったと訳しているのに対し、フランシスコ会聖書研究所訳は「人間」となったと訳している点です。

 それ以外にも、新共同訳はこのみ言葉がわたしたちの間に「宿った」、フランシスコ会聖書研究所訳は「住むようになった」と訳しています。この動詞は、ギリシア語原文では、「天幕を張った」という意味の語です。出エジプトのときに、そしてイスラエルの民が荒れ野を進むときに、主である神がご自分のために天幕を張るように命じ、イスラエルの民とともに住まわれたことを想起させる動詞です。「天幕を張る」とは、単にともにいることを意味するだけでなく、生活や寝起きをともにすることを意味し、神がイスラエルの民と生活のすべてをともにしたいと望み、実現しておられることを示しています。ヨハネ福音書は、この動詞をイエス・キリストに当てはめ、受肉の神秘の意味を表現しようとするのです。神の子はわたしたちと生活のすべてをともにしてくださるようになった。これが、「宿る」、「住む」と訳されている言葉の意味です。

 さて、それ以上に大きな違いは、み言葉が「肉」となったという訳と、み言葉が「人間」となったという訳の違いです。ギリシア語原文で使われている語は「肉」です。だから、新共同訳は原文をそのまま日本語に訳しています。しかし、聖書の中の人間理解を考えると、この語は単なる肉の部分を意味しているのではありません。聖書の中では、「肉」、「いのち」、「霊」といった語で人間全体を表現します。人間をどの視点から見るかで使い分けているのです。「肉」と言った場合、被造物に過ぎず、弱く、限界がある人間という意味です。「いのち」と言った場合、神からいのちを受け、生きている人間という意味です。「霊」と言った場合、目に見えることを超えて神とのかかわりを生きる人間という意味です。

 ですから、1・14は「肉」と訳しても、「人間」と訳しても、訳語としては不十分なのです。神の子は「人間」となられたのですが、単に「人間」となられただけでなく、弱く限界のある人間となられたということが「肉」という語で強調されているからです。そこが翻訳の限界なのですが、違う訳文の存在によって、より多くの人がヨハネ福音書の言おうとしていることの意味に気づくことができればすばらしいと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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