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みことばの響き

見せかけ 年間第32主日(マルコ12・38~44)

 律法学者たちが長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶され、宴会の上座につき、「見せかけの長い祈り」をすることについてイエスは、「この人たちは、それだけ厳しい裁きを受けるであろう」(マタイ12・40)と語ります。これらの中でも「見せかけ」という言葉がとても気になりました。

 「見せかけ」(ギリシア語では「プロファシス」を使用し、まさに「見せるため」の意味)に近い表現は「偽善」(ヒポクリシス)、「嘘」などを挙げることができます。どちらとも皆の前で目立つように振る舞い、見てもらおうとするものです。

 15年前になりますが、約20名の巡礼者を連れてイタリアを旅したことがあります。巡礼も無事に終わり、ローマからミラノ経由で成田へ向かいました。ローマの空港で出国のスタンプを押してもらい、ミラノ経由なので、ミラノ空港に降り立ちました。パスポートコントロールの所である一人のおばさんが「せっかくミラノに来たのだから、パスポートに記念のスタンプを押してほしい」というので、コントロールのところでお願いしました。担当者はニタニタしながら、「バチン」と。おばさんはミラノで記念のスタンプを押してもらったと思って喜んでいましたが、それは音だけで、実際にはスタンプは押されていませんでした。いわゆる「空うち」だったのです。担当官も味なことをやるなあと思いました。まさに「見せかけ」のスタンプでした。

 見せかけの行動とは対照的なのが、貧しいやもめです。彼女はとても正直で、謙虚にイエスの前で振る舞い、「生活費のすべてを投げ入れ」(マルコ12・44)ます。数年前、長崎市内にある深堀教会が新しく建て替えられました。私の弟はその教会に所属していますが、会計係をしていることもあり、信徒たちから建設資金を集めるのはとてもたいへんだったと話していました。落成して一年後、教会の崖が崩れ始め、修理が必要となり、その工事費が何と3000万円。建築資金のためにみんなにお願いした後だけに、これまた大きな負担となりました。それでも生活がけっこう厳しい方々が献金してくださったとのこと…。

 いつの時代でも、貧しい生活ではあっても、イエスの道に誠実に生きようとする人の行動はとても美しいものです。

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