洗礼者ヨハネが殺害されたとの報告を受けたイエスは、人里離れた所へ行こうとなさいます。静かな気持ちでいたいイエスの思いとは対照的に、多くの人々がイエスのもとへ押し寄せてきます。イエスは大勢の群衆の動きに迷惑を感じるどころか、「深く憐れみ」を感じられます。「憐れむ」という言葉はギリシア語で「スプラングニゾマイ」が使われ、これは「内臓」「はらわた」に由来する言葉です。おそらく昔の人たちは、人間にとって弱く、腐りやすい部分だからこそ、同情し、手を差し伸べたい気持ちからこの言葉を作ったのでしょう。単なる憐れみではなく、彼らに対して深い同情を込めた「憐れみ」の心が示されています。彼らの気持ちを察して、イエスもまた彼らのために何とかしたいと思ったのでしょう。
イエスのそうした態度に多くの人々が感銘を受け、その数は「女と子供を別にして、男が5000人ほど」に膨れ上がります。夕暮れになってきたので、弟子たちはあまり面倒なことに関わりたくないと思い、群衆を早く解散させて、自分たちでゆっくりとした時間を過ごしたいと考えます。ところが大勢の人は家に帰ろうとはしません。イエスの声を聞きたい、癒されたいと思うのが正直なところでしょう。イエスはまず弟子たちに「あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい」と命じます。弟子たちにしてみればまさに想定外のことでした。「ここには五つのパンと魚二匹しかありません」と答えます。「しか」という言葉がとても耳に響いてきます。ギリシア語原文では「エイ・メー」が使われ、「~を除いて(持って)いない」という表現が使われ、まさにどうしようか、ほんとうに困ったなあというような雰囲気が伝わってきます。しかし、イエスは「天を仰いで賛美の祈り」を唱えます。数少ないものではあっても賛美していきます。ここに私たちの思いとは違うものがあります。同じものでも不満を言うか、感謝して賛美するか…。こうした窮地に私たちはどのように対応するでしょうか…。
