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おうち黙想

第3回「神は、元に戻さない」――再創造は修復ではない―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

今回のポイント
 第三回で語られているのは、「元に戻りたい」という人間の自然な願いが、神の創造の道とは一致しないという現実です。人は壊れると、以前の自分、以前の信仰、以前の安定に戻ろうとします。しかし聖書の神は、人を修理して元通りにする方ではありません。エレミヤが見た陶工のように、神は壊れた器を直さず、粘土に戻して別の器を形づくられます。捕囚後の神殿も、かつての栄光を再現することはありませんでした。神の再創造は、過去の再現ではなく、方向そのものの転換です。
 そのため神の「新しさ」は、人が思い描く回復の延長線上には現れません。復活のイエスが傷を残したまま現れたように、過去は消されず、別の意味を与えられます。四旬節の途中で祈りが空回りするのも、神が以前の形に戻そうとしていないからです。再創造の途中は不格好で、未完成で、待たされます。しかしパウロが語るように、私たちは完成していないまま、神の手の中にあります。四旬節とは、後戻りできない現実を受け入れ、答えを急がず、神の前で待つ季節なのです。

人は壊れると、必ず「元」を探し始める

 人生が崩れたとき、人はまず「元に戻る」ことを考えます。
 あの出来事が起こる前に戻れたら。
 あの失敗をする前の自分に戻れたら。
 信仰がまだ自然に機能していた頃に戻れたら。
 四旬節の祈りの中にも、この願いは無意識に入り込みます。悔い改めれば、以前のように祈れるようになるのではないか。努力すれば、かつての確信が取り戻せるのではないか。しかし、聖書を開くと、この「元に戻りたい」という願いが、神によってほとんど受け取られていないことに気づかされます。なぜなら、聖書の神は、人を修理する方ではないからです。

陶工は、壊れた器を修理しなかった

 預言者エレミヤは、主に命じられて陶工の家へ行きます。そこで彼が目にしたのは、陶工が器を作り、途中で失敗し、その器を壊し、粘土をこね直して別の器を作る姿でした(エレミヤ18・1–6)。ここで決定的なのは、陶工が壊れた器を「直そう」としなかったことです。
 ひび割れを埋めることも、形を整えて元に戻すこともしなかった。ただ一度、完全に壊し、粘土に戻し、最初から作り直したのです。主はこの光景を通して言われます。「陶工が粘土を扱うように、わたしはあなたたちを扱う」。再創造とは、修復ではありません。神は、壊れた人生を“以前と同じ形”に戻そうとはされないのです。

捕囚後の神殿は「元に戻らなかった」

 バビロン捕囚から帰還した民が神殿を再建したとき、年老いた人々は声をあげて泣きました。かつての栄光を知っていたからです(ハガイ2・3)。彼らの涙は信仰の欠如ではありません。元に戻らなかったことへの正直な悲嘆でした。
 しかし主は言われます。「この後の神殿の栄光は、先のものよりも大きい」(ハガイ2・9)。それは、規模が大きくなるという意味ではありません。神は、同じ栄光を繰り返さない。過去を再現しない。別の形で、別の深さで、臨在を示されるという宣言です。ここでも神は、「元に戻る」ことを拒否されます。

人の「回復」と神の「新しさ」は噛み合わない

 人が願う回復は、たいてい「以前の延長」です。少し良くなった自分、少し安定した信仰、少し整った人生。しかし神が語られる「新しさ」は、その延長線上にはありません。
 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43・19)。芽は、以前の形では現れません。だから人は戸惑います。後退しているのではないか、間違った方向に進んでいるのではないか、と。しかしその違和感こそ、神が元の道に戻していない証拠です。神の再創造は、方向転換として始まります。

復活は「元に戻った出来事」ではない

 復活されたイエスは、完全に元通りの姿で弟子たちの前に現れたわけではありませんでした。手と脇腹の傷を残したまま立たれました(ヨハネ20・27)。復活とは、死ななかったことではありません。傷が消えたことでもありません。死と傷を引き受けたまま、新しい命に入ることです。
 もし神が「元に戻す」方であったなら、傷は消えていたはずです。しかし神はそうされなかった。過去は消されず、別の意味を与えられました。ここに、神の再創造の決定的な特徴があります。

四旬節で祈りが空回りする理由

 四旬節の途中で、祈りがかえって難しくなることがあります。頑張っているのに、前より祈れない。言葉が効かない。安心が戻らない。それは失敗ではありません。神が、以前の形に戻そうとしていないからです。
 古い祈りが通用しなくなるとき、古い信仰の言葉が効かなくなるとき、信仰が壊れたのではありません。神が、別の器を形づくろうとしておられるのです。再創造の途中は、いつも不安定で、不格好です。

後戻りできないことを受け入れる

 人にとって最もつらいのは、「戻れない」と知ることです。しかし聖書の神は、決して後戻りをさせません。エジプトに戻ろうとする民を、神は荒れ野にとどめられました。弟子たちを、元の漁師の生活に戻しませんでした。
 神は、前にしか創造されません。しかも、人の想定よりも深い方向へ。ここに、四旬節の厳しさがあります。

未完成のまま、神の手の中にある

 パウロは言います。「わたしは、すでに得たのでも、すでに完成したのでもない」(フィリピ3・12)。再創造の途中は、完成していません。見通しも立ちません。四旬節とは、未完成のまま、神の手の中に置かれていることを受け入れる季節です。
 次に求められるのは、行動ではありません。
 答えでもありません。
 ただ、待つことです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. 第3回「神は、元に戻さない」――再創造は修復ではない―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

  2. 見てから信じるか、信じてから見るか(四旬節第4月曜日)

  3. 第2回「燃え尽きた場所に、神は近い」――神から最も遠いと感じる地点が、臨在の中心になる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

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