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これってどんな種?

真の幸せという種 年間第4主日(マタイ5・1〜12a)

 私たちにとって「幸せ」とは何なのでしょうか。「幸せ」の意味は、「その人にとって幸運(幸福)であること。また、その状態」とあります(『新明解国語辞典』)。「その人にとって」ということですから、きっと人それぞれ違うのではないでしょうか。さらに、「幸福」という意味を調べますと、「現在(に至るまで)の自分の境遇に十分に安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持ちを抱くことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)」『新明解国語辞典』)。とあります。

 このように見ますと、【幸せ】な状態というのは、「その人にとって、心の状態が満たされ、安らぎを覚え、その状態が続くこと」なのでしょう。私たちにとっての【幸せ】は、もう一つ深く進んで「その人」ではなく、「三位一体の神」との関係において【幸せ】ということですし、【天の国】の状態と言ってもいいのかもしれませんね。

 きょうのみことばは、イエス様が人々に「幸せ」について教えられる『山上の説教』とよばれる最初の場面です。この『山上の説教』は、マタイ福音書の5章から7章まで続き、イエス様に着いて行く当時のキリスト者だけでなく、今の私たちにとっても大切な教えと言ってもいいでしょう。

 みことばは「さて、イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった」という言葉から始まっています。この人々の群れの中には、イエス様がなさった奇跡によって癒された人、教えを聞いて感銘を受けた人などが集まって来たのでしょう。イエス様は彼らとともに山にお登りになられます。ルカ福音書の同じ箇所では、「イエスは使徒たちとともに山を下り、平らな所にお立ちになった。」(ルカ6・17)とあり、山の上ではなく山を下りてとなっています。マタイ福音書では、モーセが『十戒』をシナイ山でおん父から受け、それをイスラエルの人々に示したように、イエス様が人々に教えを伝えるということを意図したようです。

 さらにみことばは「腰を下ろされると、弟子たちが近寄ってきた。イエスは口を開き、彼らに教え始められ、」とあります。この「腰を下ろす」と「口を開き」というのは、ラビが大切な話をこれからする時の仕草ですので、イエス様は「これから大切な話をしますよ」と人々に示されたのです。

 イエス様は、「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものである。」と話し始められます。この「自分の貧しさを知る人」という言葉を直訳しますと「霊において貧しい人」となるようです。ですから、この「貧しさ」は、単なる物質的な貧しさではなく、宗教的、精神的な【貧しさ】ということで、「霊において自分の貧しさを知ることで、『神に頼るほかはない』ということを知る人」であり、「謙遜な人」という意味でもあります。イエス様は、謙遜な心でおん父に全幅の信頼を持つ人の心を「天の国」の状態と言われているようです。

 イエス様に着いて行った人たち(キリスト者)は、当時のユダヤ教の人たちやローマ人たちから迫害され、搾取され苦しい生活をしていたようです。何よりも同邦のユダヤ人からの迫害は、彼らを苦しめ絶えず忍耐を強いられていたことでしょう。そのような中にあってイエス様の始めの教えは、「自分の貧しさを知る人は幸いである」だったのです。

 「幸」という漢字は、「辛」に「一」を加えると「幸」になりますが、この「一」が希望なのか、愛なのか、努力なのかは、その人によって違うことでしょう。パウロは、「……苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。希望はわたしたちを裏切ることはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。」(ローマ5・3〜5)と示しています。パウロが宣教していた時にもキリスト者たちは、迫害され忍耐を強いられていたのでしょう。パウロは、そのような人々に対して「今の苦難は、それだけで終わるのではなく、希望となり、神の愛で満たされる」と励ましているのです。

 イエス様は、「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる」と言われます。この「悲しむ人」というのは、自分自身に及ぼされるさまざまな「悲しみ」ということもありますが、周りの人が受けている苦しみを見て悲しむということも言えるのではないでしょうか。イエス様は、そのような人に対しても「慰められる」と言われるのです。その後に続く「柔和な人」「義に飢え渇く人」「憐れみに深い人」「心の清い人」「平和を求める人」「義のために迫害されている人」というのもすべて、自分自身のためではなく、周りの人に対してですし、三位一体の神のみ旨に向かう心が含まれているのではないでしょうか。

 私たちが真の【幸せ】をいただく時には、【自我】から解放された状態でないと求めることができないものなのかもしれません。おん父は、私たちがその【自我】から解放された時、「慰め」「満たされ」「憐れらまれ」「天の国」をくださるのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中で真の【幸せ】を求め続け、三位一体の神からの恵みをいただくことができたらいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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