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おうち黙想

第三週:苦しみの玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

絶望のただ中で働く愛

――「苦しみの玄義」に見る、神の沈黙の力

Ⅰ 苦しみの現実と、私たちの本音

 人は、苦しみの中にいるとき、自分が神から見放されたように感じるものです。
 「なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか」
 「どれだけ祈っても、何も変わらない」
 「神は本当にいるのだろうか」
 口には出さなくても、心の奥底ではそう呟いている自分に気づくときがあります。
 そして、多くの人はその瞬間、祈る気力すら失います。祈りが届いていないように思えるのですから。
 けれど、「苦しみの玄義」が私たちに語りかけるのは、まさにその“神不在のような場所”こそ、神が最も深く働いている場所だという驚くべき真理です。
 ロザリオのこの部分は、人生の最も暗い夜をくぐっている人のための祈りです。それは「苦しみには意味がある」と軽々しく言うものではありません。むしろ、「意味などわからなくても、神はそこにいる」と告げる祈りなのです。
 ここでは、五つの神秘を「苦しみのなかにいる人の心がどのように神と出会うか」という視点から黙想していきます。

Ⅱ 第一の苦しみ ― ゲッセマネの祈り:「祈ることが“逃げ”ではなくなるとき」

 人生がつらいとき、人は「祈っても何も変わらない」と言います。それはある意味で正しいのです。祈りは、現実を魔法のように変えるものではありません。
 ゲッセマネの園で、イエスが「この杯を取りのけてください」と祈ったとき、杯は取りのけられませんでした。苦しみはそのまま残りました。
 それでも、祈りは無駄ではありませんでした。なぜなら、その祈りを通して、イエスの中で“逃げたい心”が“受け入れる心”へと変わっていったからです。
 「私の願いではなく、御心のままに」――この言葉は、諦めではありません。
 それは、「今の現実の中で神が共におられる」という信頼への転換です。
 私たちが苦しみの中で祈るとき、現実はすぐには変わらないかもしれません。しかし、祈りを重ねるうちに、“現実の受け止め方”が少しずつ変わっていきます。
 それは、「なぜ自分が」と問うことから、「この中で神は何をしておられるのか」と問う心への、静かな移行です。

Ⅲ 第二の苦しみ ― 鞭打ち:「尊厳を奪われても、価値は失われない」

 人が深く傷つくのは、単に肉体の痛みのせいではありません。
 それよりもはるかに深く人を壊すのは、尊厳を踏みにじられることです。
 侮辱され、誤解され、理不尽に扱われ、誰にも価値を認めてもらえない――そうした経験は、心の奥を深くえぐります。
 イエスは、罪なき方でありながら鞭で打たれ、群衆の前で辱めを受けました。
 しかし、その瞬間にも、彼の価値は一片も失われていませんでした。
 神の子としての尊厳は、侮辱によっても、嘲笑によっても、消えることはなかったのです。
 あなたが今、周囲の言葉や評価に傷ついているなら、この神秘はあなたのためのものです。
 どれほど踏みにじられても、あなたの本質的な価値は決して傷つかない。
 それは、神があなたを創造されたときに刻まれたものであり、他人の言葉も、状況も、それを奪うことはできません。
 祈りの中で、その価値の源が「神の愛」そのものであることを、もう一度思い出してください。

Ⅳ 第三の苦しみ ― いばらの冠:「笑いものにされたとき、神は沈黙している」

 人は、嘲りの中で自分を見失います。どれだけ頑張っても評価されず、むしろ努力が笑いの種にされる。真面目さが馬鹿にされ、信仰が滑稽だと嘲笑される。
 そのとき、私たちは「何のために生きているのか」と問いたくなります。
 イエスは「王」と呼ばれながら、王冠ではなく茨の冠をかぶせられました。王座ではなく、笑い者として立たされました。
 しかし、神は沈黙しておられます。言い返しも、力による反撃もありません。ただ、静かにその嘲りを受け止めておられます。
 この沈黙は、敗北ではありません。
 それは、「人の評価によって自分の価値を測らない」という、神の絶対的な自由の表れです。
 あなたが嘲られているとき、神は同じ沈黙のうちにあなたと共におられます。沈黙の中で、「他人が何を言おうと、あなたは愛されている」という事実だけが、静かに輝いています。

Ⅴ 第四の苦しみ ― 十字架を担う:「倒れても、歩みは止まらない」

 苦しみが長引くと、人は「もう立ち上がれない」と思います。
 未来を考える気力もなくなり、毎日がただ“耐えるだけ”になる。
 イエスもまた、十字架の重さに倒れました。一度ではなく、何度も。
 しかし重要なのは、倒れたことではなく、倒れても歩き続けたことです。
 神の子でさえ倒れるのなら、私たちが倒れるのも不思議ではありません。信仰があっても、祈っていても、倒れることはあります。
 けれど、それは「失敗」ではありません。倒れながらでも、一歩ずつ進めばいいのです。
 そして、イエスは一人で歩かれたわけではありません。キレネのシモンが十字架を背負い、ベロニカが顔を拭いました。
 あなたの十字架にも、きっと誰かが関わっています。たとえ今は気づかなくても、祈り、支え、共に涙してくれる存在が、あなたのそばにいます。

Ⅵ 第五の苦しみ ― 十字架上の死:「終わりが“終わり”ではなくなるとき」

 「もうだめだ」と思う瞬間があります。何も残っていない。希望も力も、未来さえもない――そんなとき、私たちは「終わった」と感じます。
 イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、人々もそう思ったでしょう。すべてが終わった、と。
 しかし、神の物語は「終わった」と言われたその場所から始まります。
 十字架は敗北ではなく、愛の完全な成就でした。死は終わりではなく、復活への門でした。
 そして、その門は、「神が沈黙している」と思えるほどの暗闇の奥に開かれていたのです。
 あなたの人生にも、終わったと思える出来事があるかもしれません。
 けれど、神の視点から見れば、それは“まだ途中”です。神は、終わりのように見える場所を、新しい始まりの入口へと変えることのできる方だからです。

結び ――苦しみの奥で出会う愛

 「苦しみの玄義」は、私たちに苦しみの意味を教えるためのものではありません。
 むしろ、意味がわからないままでも、神がそこにいるという事実を思い出すためのものです。
 ゲッセマネで、杯は取りのけられませんでした。
 鞭打ちも、嘲りも、十字架も、避けることはできませんでした。
 しかし、そのすべての出来事が、神の愛の最も深い表現となりました。
 同じように、あなたの人生の苦しみも、今はただの痛みとしか思えないかもしれません。
 けれど、その痛みのただ中で、神は沈黙のうちに働いています。
 あなたの涙は見過ごされていません。あなたの呻きは、神の心の奥深くに届いています。
 ロザリオの珠を一つひとつたどりながら、どうか思い出してください。
 神は、あなたの最も深い苦しみの中でこそ、最も深くあなたに近づいておられるということを。
 そして、その場所から、あなたの新しい命の物語が静かに始まっているということを。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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