修道者や司祭の召命が減少している現象にもかかわらず、一部の人々は依然として神に人生を捧げることを選んでいます。アルベリオーネは、召命を神の意志と定義し、現代社会の自己中心的な価値観に一石を投じます。家庭や共同体が安定していなければ召命は枯渇するとされ、アルベリオーネは召命不足に対し祈りや教育、善行を通じて積極的に対応することを促しています。この精神を反映し、パウロ会は人々と親密に関わりながら新たな「収穫」を目指しています。
様々な分野において、修道者・司祭の召命が絶滅寸前にあると一般に考えられています。世界中の教区や修道会の統計データが物語るように確かにその兆候はありますが、しかし未だに人生を神に捧げることを自由に選択する勇気と寛容さを持った人々も存在します。
アルベリオーネは、召命とは「霊的・司祭の状態に向けられた神の意志…無限の栄光を神に与え、選ばれた者に特別な恵みと価値の源となり、神が人間を人間によって救うように、この世に対する神の偉大な贈り物」と定義しました。
しかし、私たちが生きる後期キリスト教社会の文化は、「人生を楽しめ!自己実現を求めろ!一人で満足しろ!快楽を味わえ!人生は一度きり!」といった考え方を絶えず押し付けてきます。しかしこれは新しいことではありません。..預言者イザヤはすでに当時の人々のこうした考え方を非難していました。「食べて飲もう。それがすべてだ。」
宗教が文化に及ぼす影響力が徐々に薄れてきたことで、信者の数も減少してきました。神や宗教の精神的・道徳的要求に場所がなくなったかのようです。宇宙の創造、生命の起源、苦しみと死は、信仰によって超越的な意味を見出すこれらの謎でした。召命は家族やキリスト教会の共同体から生まれますが、家族や共同体に危機があれば、召命の源泉が枯渇します。
修道者・司祭の召命は、私たちの時代の予言的なしるしとなっています。神の招きを快く受け入れ、無関心を振り払う一人一人の男女の心に実現するしるしです。アルベリオーネは絶えず、召命の問題を私たちの問題と感じ、教会、人々、文明に最大の奉仕をするには召命を呼び覚ますことだと意識するよう訴えかけています。
アルベリオーネの著作の中で、召命問題について多く言及されており、それが「あらゆる所で最も緊急で最も難しい」と指摘しています。これはパラドックスに聞こえるかもしれません。なぜなら、イタリアだけでも8つの志願院が開設され、1959年には約2,000人の志願者がいたからです。しかし、アルベリオーネは次のように自問しています。「主から託された莫大な数の若者の中で、成功する割合はいくらになるだろうか。」
1960年にアリッチャで行われた教区修道会での説教で、アルベリオーネは使徒的熱意の働きの中で召命問題を最優先するよう励まします。イエスは説教から始めずに、まず数人の男性を招き「わたしに従いなさい。そうすれば、あなたがたを人間を獲る漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われました。彼らは、カナの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えた奇蹟を見て、「そのとき、初めて弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ2:11)のです。
私たちに対しても、召命問題に屈せず、多くの国で想像を絶する程に深刻化する召命の不足に怯まないよう、アルベリオーネは勧めています。パウロ会は問題を解決する人々です。召命問題に取り組む際も、私たちの創立者である父の果てしない執念と信仰に照らされつつ、以下のように促されています:
祈りの生活を熱心に実践し、良い手本を示すこと
家庭や若者のための施設や活動を支援すること
教理教育とカトリック教育に熱心に取り組むこと
パウロ会の霊性を若者に知ってもらうこと
職場での良き手本となること
小さな働きから着手すること
私たちは、聖書の言葉「収穫する人は少ない」(マタイ9:37)を忘れてはなりません。しかし、主は私たちに「だから、収穫の主人に働き手を送ってくださるよう、お願いしなさい」(マタイ 9:38)とも言われています。
アルベリオーネは、私たち一人一人が熱心に祈り、善行に努め、親身になって人々に寄り添い、希望の絶えざる源となることを望んでいます。こうすれば、神の慈しみにあふれる祝福が、思いもかけない所から沸き起こり、新しい豊かな「収穫」をもたらすでしょう。
Astorga Rojas Carlos Alberto(ベネズエラ管区、司祭)