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みことばの響き

亡くなった二人の司祭 年間第29主日(ルカ18・1~8)

 宣教には二つのタイプを考えます。一つは目に見える形での活動的なタイプでの宣教、もう一つは観想的なタイプでの宣教。

 活動的なタイプの宣教として、今は亡きコロンバン会のデイキン神父さんを思い出します。彼は派遣された先々で、教会周辺の家庭を積極的に訪問し、とても活動的でした。とても優しい性格で、宣教師として多くの方々に慕われた方でした。

 第二は観想的なタイプ。聖人としては、幼いイエスの聖テレジアを挙げることができます。彼女は生涯、修道院の中で生活しましたが、宣教者のために絶えず祈っていたことから、宣教の保護の聖人になっています。このタイプとして今はなき長崎教区の竹山勇神父様を思い起こします。

 竹山神父様は私が中学3年の時、郷里の西木場教会の主任司祭として赴任し、約3~4年間司牧しました。休暇の時には、修道会の神学生である私を、何の分け隔てもなく、面倒をみてくれました。「わが子のような接し方」で…。やがて田平教会へ転任しましたが、パーキンソ病を患い、症状も重くなって長崎のフランシスコ病院に入院することになりました。やがて私は司祭になり、御礼の意味で神父さんの病室を訪問しました。とても喜んでくれ、別れる時には丁寧に祝福を与えてくださったのがとても心に残っています。その後、病室を訪れた時も同様に…。神父様の生き方からまさに、観想的な宣教を感じました。

 やがて神父様は福江の聖マリア病院に転院し、病状はさらに重くなっていきました。訪問すると担当のシスターから「山内神父さんだと分かるかなあ」と言われたのですが、顔を見るなり、神父様は久しぶりに会った喜びで涙を流していました。その涙から、今までずっと祈ってくれていたのだなあというのがよく分かる感じでした。神父様の生涯は20~30年、寝たきりの歩みだったと思いますが、それは同時に観想的な宣教者の証でした。「気を落とさずに祈る」やもめの忍耐強さと先輩司祭たちの姿がオーバーラップしてきます。

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