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最初の宣教師たち

爆撃の悪夢――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(37)

※衝撃的な内容が含まれています。辛いと感じる方はどうぞ無理なさらないでください。

 一九四四年十一月一日、私たちが昼食をとっていると、首都にサイレンの長いうなり声が響き渡った。空襲警報! それは一九四二年四月十八日の空襲以来のものだった。私たちは驚きよりも好奇心から中庭に飛び出した。空は白い煙と黒い煙のかたまりにゆっくりと覆われていった。高射砲が激しく発砲していた。ラジオはアメリカ軍のB29爆撃機が偵察飛行中、と報じていた。そして間もなく迎撃の砲撃は止み、サイレンは警戒警報の解除を告げた。

 東京上空に現れる米軍の偵察飛行は、戦時ではそれほど特別なことではなかった。

 しかし、その後続々と飛来するB29によって、あの時のB29が単なる偵察飛行ではなかったことがやがて判明した。爆撃機の最初の飛来から一週間たって、ついに本当の空襲が始まった。最初の爆弾は東京の郊外に投下されてそれほど大きな被害はなかったが、空襲は次第に頻繁になり、飛来する爆撃機の数も増加していった。クリスマスのころに、一トン爆弾が教区神学校の近くに投下され、地面に巨大な穴を開けた。一九四五年の二月には大きな被害こそなかったが、林の中の防空壕に逃げ込もうとした二人の神学生が、猛烈な爆風で首を切断されてしまった。

 一九四五年一月のある雪の夜。周囲に軍需施設が全くないような地域で、数軒の家が爆撃により消滅した。数日後には、もっと都心に近い地域で多くの家屋が全滅した。アメリカ軍が爆撃目標を選ばず、一般市民を巻き込む無差別爆撃を行ったことは明らかであった。日常生活はあらゆる意味において、ますます困難になっていった。私たちは深夜に一度か二度は必ずサイレンの音で目を覚まされるため、安眠時間が制限されてきた。そのため常に睡眠不足で、昼間は頭がぼんやりして、通常の仕事に戻るのには努力が必要であった。外出することは危険となった。それは突然襲ってくる空襲のためでもあり、また外国人が悪意をもって日本人から見られていたためでもある。仕事で放送局に通っていた三人の宣教師には、小型の特別な身分証明書が与えられ、上着につける番号がついたバッジが渡された。そして、できるだけ家と職場の通勤経路から外れないようにという、強い警告が与えられた。要するに、すべてにおいて生活は一層困難になり、印刷工場でもその他の所でも、もはや正常な活動というものは考えられなくなっていた。三人が分かれて勤務していた放送局の仕事も、絶えず危険にさらされていた。

 こうした状況の中で、テスティ神父は中国の自分の所属修道院に帰るほうがよいと考えた。ましてや日本の寒気と湿気のために、彼はひどい霜焼けにかかっていた!

 私は今までに、あれほどひどく手が腫れ上がっているのを見たことがなかった。

 仕事も勉強ももはや不可能となったので、南京に戻るという選択はテスティ神父の窮状を解決するために当然のことだと思われた。彼が東京から移動する許可は得られないだろうと言う人もいたが、状況は思わぬ方に進み、彼は移動に必要な許可を得た上、願ってもない同伴者にして保護者を得ることができたのである。それは王子教会の青年信徒で、憲兵隊の軍曹であった。彼はちょうど赴任地の満州(現在の中国・東北部)に戻るところだった。憲兵隊の軍曹が同伴するということは、あのような状況下においては実に願ってもない幸いなことであった。

 こうして一九四五年の三月初旬、テスティ神父は悲劇が切迫しているさなか、幸運にも南京に戻るため日本を出発して行った。

 そのうち、東京への空爆はますます激しく、しかも執拗に行われ出した。一九四五年三月十日、最初の絨毯爆撃が行われ、東京の幾つかの地域が文字どおり完全に破壊され、四十万人もの犠牲者が出たと言われた。恐ろしいことだった! しかしそれはまだ、ほんの手始めにすぎなかった。四月には空爆が二回あり、私たちは本当に恐怖の時を過ごした。心底これでもう、「万事休す」だと思った。しかし全焼したのは、一回目は私たちの家の東側。二回目は西側で、私たちの家は、あとほんの数メートルというところで、かろうじて難を逃れた。三度目の空爆は北の地域を破壊し、いわば、三方が焼け野原に囲まれた状態になった。

 当時の日本の家屋はほとんどが木造住宅であったので、アメリカ軍は空爆に際してはもっぱら焼夷弾を使用した。焼夷弾の雨はかなり広い範囲に落ちて火災を引き起こし、数分のうちに手のつけられない状態になった。そして少しでも風があると、どんな消火手段であってもまったく役に立たなかった。

 市街地で、しかも家の周囲がすべて消失してしまったため、私たちはある種の安心感を抱いた。しかしそれが幻影にすぎないと分かる日は、刻々と近づいてきていた。

 一九四五年五月二十五日の金曜日、それは私たちにとって「最も長い日」であった。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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