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みことばの響き

「悔い改め」への道筋 四旬節第4主日(ルカ15・1~3、11~32)

 今日の箇所には、「見失った羊」(15・4~7)、「無くした銀貨」(15・8~10)のたとえがあります。失ったり、無くしたりしたものの比率で考えてみると、見失った羊では99匹に対し1匹。無くした銀貨では9枚に対し1枚。その割合がだんだん小さくなり、有名な「放蕩息子」のたとえでは、父と息子(弟)、父と息子(兄)というように、1対1の割合になっていきます。比率が小さくなることにより、私たち一人ひとりへのかかわりの親密さが増してくるのではないでしょうか。

 さらに「見失った羊」や「無くした銀貨」では、「悔い改める一人の罪人」(15・7)、「一人の罪人が悔い改めれば」(15・10)と、「悔い改め」という言葉で結ばれていますが、「放蕩息子」では「悔い改め」という言葉は使われていません。単純な考えですが、「放蕩息子」の箇所にこそこの言葉が使われてもよさそうですが、むしろ「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15・20)というように、「憐れに思う」ところに大きなポイントを置いています。

 つまり、私たちの自発的な「悔い改め」よりも前に、父である神様の愛情がどのように注がれ、それを感じ取って初めて私たち一人ひとりが回心(悔い改め)へと導かれていく道程を示してくれます。タイトルとしては昔から「放蕩息子」としてよく知られていますが、内容からすれば、「父親の愛情」「父親の憐れみ」が妥当でしょう。我慢強く待つ父親、自ら走り寄る父親、優しく迎える父親。それは、現代の父親像にも当てはまります。

 四旬節は「悔い改め」の季節ですが、その根源となっている神様の愛、憐れみを感じ取っていきましょう。

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