書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

みことばの響き

イエスの涙 四旬節第5主日(ヨハネ11・1~45)

 15年前の12月23日の夕方、母がクモ膜下出血で倒れ、翌日、佐世保市内の病院で手術を受けました。83歳でしたが、術後の経過は良好でしたが、少し認知症が入ったようです。2週間ほど集中治療室にいて、一般の病室に移りました。しばらくして肺炎を起こし、危険な状況もありましたが、それを何とか乗り越えました。やがて水頭症にかかり、1月21日には頭にたまった水を抜く手術を30分ほど行い、今はだいぶよくなりました。この手術の前日、病室へ聖体を持っていきました。主任司祭からは「病者の塗油を授けたら」と言われたのですが、これまでの経験で私が病者の塗油を授けると数日中に亡くなるケースが多く、(縁起をかつぐわけではないのですが)聖体だけを持っていくことにしました。

 病室に入り、母に面会。最初は分からない表情でしたが、「聖体を持ってきたよ」というとすぐに分かってくれました。「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と唱えると、ちゃんと十字架を切り、「主の祈り」や「聖母マリアへの祈り」を唱え、聖体を授けると何か安心した様子でした。最後に祝福を与え、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と唱えると、この時にも十字を切りました。聖体を授け終えると、涙が出てくる感じでしたが、周囲には兄弟たちもいるのでそこはじっと我慢。翌年、母は亡くなりました。

 さて状況は違いますが、「イエスが愛しておられた」ラザロが亡くなり、イエスは涙を流されます。「愛して」とありますが、これは「アガパオー」(慈愛)ではなく「フィレオ」(友愛)が使われています。つまりイエスがラザロに対して、友達のように親しみを持った深い愛情でした。だからこそイエスは涙を流されたのかもしれません。

 悲しい時、寂しい時、私たちはどんな涙が出てくるでしょうか。それはイエスの涙と似たものでしょうか。

RELATED

PAGE TOP