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最初の宣教師たち

小教区教会と事業――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(24)

 東京の王子区における最初の新しい伝道所は、省線の駅付近の地名から一般に「下十条教会」と呼ばれていた。教会の創立は、「日本カトリック新聞」(現・カトリック新聞)に掲載された。この知らせはたちまち広まり、最初の日曜日から大勢の人(カトリック信者も信者でない人も、ただ好奇心だけの人たちも)が教会に押しかけた。一九三六年のことであった。当然のことながら、私たちが大森から下十条に移ってすぐに心がけたことは、カトリック信徒の家庭を一軒残らず訪問することだった。それには大森で購入して、毎週木曜日の散策に使っていた自転車が役にたった。

 私たちのたゆまぬ活動は、すぐに目に見える結果となって現れた。教会に詰めかけるあらゆる世代の男女は、日曜ごとにますます増えていった。最初の月の終わりごろには、聖堂は満杯になり、主日は二回ミサをささげなければならなくなっていた。

 みなさんは善良さ、礼儀正しさ、親切心、愛の精神において実に優れていた。彼らは私たち司祭(パウロ神父が主任司祭で、ロレンツォ神父は助任司祭であった)を助けるため、私たちが望むすべてのことに喜んで協力してくれた。彼らと話していて、私たちは彼らがカトリック信徒であること、そして信仰を具体的に実践することに大きな喜びを感じているのをすぐ理解した。信徒たちは毎日曜日、心を集中し、深い信仰心のうちに聖体を拝領できるよう、ミサの前に「ゆるしの秘跡」を受けていた。

 王子の二階建ての集会所が広いと感じていたのは、最初のわずか数週間だけであった。その家は、二階がテラスのある大きな部屋だった。ここを主任司祭と助任司祭のための書斎として私たちは自分たちの荷物を置き、部屋の残りの部分はこれから来る会員たちのために空けておいた。

 一階には、二階の部屋の真下に小聖堂があり、そこに祭壇と祭服を収納する戸棚、ミサ用の祭具を置くテーブルを置いた。祭壇の前には、聖パウロ修道会の会員のための狭い空間を設け、そこで聖体訪問を行っていた。広間には高さが二メートルほどの開閉扉があり、この扉によって静寂な「聖所」と、大きな広間とに仕切られていた。この大広間は日曜日には聖堂となり、平日はさまざまな活動と集会の場所として使われた。

 広間の西側には伝統的な日本の庭が見られたが、そこは間もなく子どもたちの遊び場に姿を変えた。広間の東側にも取りはずしのできる障子があったが、それはいつも閉め切られていた。広間の周囲には内廊下があり、表玄関の方には洋式の応接間や台所があり、その奥に浴室と和室が二部屋あった。

 「主の日」すなわち日曜日ともなると、中央の大広間は活気と喜びで満ちあふれた。

 メインのミサは朝の九時から始まったが、早起きの信徒たちは八時ごろからすでに集まって来て、ミサの開始を待つ間に「ゆるしの秘跡」を受けたり、個人的に祈っていた。ミサではみな、座布団の上にひざまずいて信者としての基本的な祈りを唱えたり、司式司祭の呼び掛けに応えたりして、その日の典礼にふさわしい聖歌を歌っていた。

 子どもたちは男女別にグループでまとまり、祭壇の近くに座っていた。成人の男性は晴れ着を着用し、女性は頭に白いヴェールをかぶっているので、すぐに見分けることができた。ミサの説教は通常、主任司祭が行い、信徒たちは注意深く、沈黙のうちに静かに聞いていた。信徒たちはみな聖体拝領をし、共同体がそろって日曜日の信者の基本的な務めを果たしていた。ミサが終わると開閉扉は閉められ、祭壇と大広間は仕切られる。そして控えめにではあるが、広間には喜びにあふれた賑わいが涌き起こるのだ。信徒たちは司祭たちに深くお辞儀をしながら、「おはようございます」と挨拶する。それからお茶が出され、その後、子どもたちは公教要理の勉強のために二つのグループに分かれる。年長組はパウロ神父が、年少組はロレンツォ神父が受け持った。約一カ月後には、求道者のための講義も始まった。このため子どもたちのカトリック教理の授業と指導は、上級生の男女の学生たちに委ねられた。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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