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おうち黙想

第1回「待つことの痛み ― 神はなぜ遅れるのか」〜遅れてくる神〜

 待降節は、教会の暦の中で最も「静かな季節」と言われます。
 しかし本当のところ、私たちの内側はあまり静かではありません。
 「早く来てほしい」「早く変わってほしい」「早くわかりたい」。
 そうした焦りのうねりの中で、私たちは“待つ”ということの難しさを思い知らされます。
 神を待つ――それは、単に時間が経つのをやり過ごすことではありません。
 それは、「自分の望みのスピード」を手放す行為です。
 待降節の黙想は、この「神はなぜ遅れるのか」という問いを、逃げずに見つめるところから始まります。

Ⅰ. 神が遅いと感じる時

 人はなぜ「神は遅い」と感じるのでしょうか。
 おそらく、私たちの人生の中で、祈っても何も変わらない時、願っても何の答えもない時、神の沈黙がやけに長く感じられるとき、その思いが心を刺すからです。
 たとえば病の床にある人、将来の不安を抱える若者、家族の問題に疲れ果てた人。
 「主よ、いつまでですか?」という叫びは、聖書の中にも繰り返し登場します。詩編13編には、まさにその祈りがあります。
 「主よ、いつまででしょう。御顔を隠されるのは、いつまででしょう。」
 神は確かに存在する。だが、その方は沈黙している。
 この“遅れ”の経験は、信仰者を最も深く揺さぶるものです。
 しかし――もし神が本当に遅れているのだとしたら、それは何のためでしょうか。
 この問いを避けずに受け止めるとき、私たちは「神の時間」という、まったく別の次元へ導かれます。

Ⅱ. 「遅れ」の中で育つもの

 聖書は「待たされた人」の物語で満ちています。
 アブラハムは、約束の子を得るまでに長い歳月を歩みました。モーセは荒れ野で四十年、ダビデは油注がれてから王座に就くまで多くの年月を費やしました。マリアもまた、神の言葉を胸に宿し、月満ちる日を静かに待ちました。
 彼らは皆、「神の遅さ」の中で信仰を鍛えられた人々です。
 そしてこの遅れの時間にこそ、人は「願う者」から「信じる者」へと変えられていくのです。
 私たちは祈りながらも、しばしば「即時の結果」を求めます。
 “願いが叶えば神を信じる”という構図に、無意識のうちに閉じ込められています。
 けれども神は、すぐに答えず、あえて待たせる。
 それは、信仰が「結果への期待」ではなく、「関係への信頼」へと深まるため。
 神の遅れとは、人間の焦燥を清める時間なのです。
 子どもが種をまいて「まだ芽が出ない」と掘り返してしまうように、私たちは神の計画を急かします。
 しかし、神は“まだ早い”とおっしゃる。
 種は見えない土の中で、ゆっくりと殻を破る。
 神の沈黙とは、その内側で“命が形づくられる音のしない時間”なのです。

Ⅲ. 焦りの背後にある「恐れ」

 では、なぜ私たちは待てないのでしょうか。
 その根にあるのは「恐れ」です。
 ――このまま何も起こらなかったらどうしよう。
 ――神は本当に聞いておられるのだろうか。
 この恐れこそが、焦りを生み出します。
 信仰とは、しばしば“沈黙のなかで信じ続けること”です。
 しかし現代の私たちは、「結果が出ない時間」に耐える力を失いつつあります。
 即応、即答、即効。
 そうした文化の中で、神のリズム――“遅れて来る愛”――は異質に見えます。
 けれども、神の「遅れ」は私たちを不安にするためではありません。
 むしろその遅さの中で、私たちの内に本当の渇きを生み出すためです。
 もし神がすぐに応えたなら、私たちは神を「願いを叶える手段」としてしか扱わないでしょう。
 しかし神が遅れるとき、人は「自分の欲」ではなく「神ご自身」を求め始めます。
 遅れがあるからこそ、私たちは神を人格として待つことを学ぶのです。

Ⅳ. 沈黙は不在ではない

 聖書は言います。
 「主の言葉はまことに遅れることはない」(ハバクク2:3)
 この言葉は、絶望的な状況の中で語られました。
 約束の成就が見えず、人々が不安に沈んでいた時代。
 神は「待て」と言われる。
 その沈黙の中に、神の忠実さが息づいている。
 神は、沈黙のうちにも働いておられる。
 沈黙とは、不在ではなく準備です。
 「まだ」の中に、すでに神の“はい”が始まっています。
 たとえば受胎告知の場面。
 天使がマリアに現れた瞬間、神は“急に”介入したように見えます。
 しかし、あの「はい」の背後には、イスラエルの長い歴史、預言者たちの祈り、民の待望、すべての「遅れ」が積み重なっていた。
 つまり、神は遅れているように見えて、実は最も正確な時に来られるのです。
 人間の時計では遅れても、神の時ではぴたりと合っている。
 これが、信仰のパラドックスです。

Ⅴ. 「待つこと」は祈りの形

 待降節の祈りは、「行動の前に静まる祈り」です。
 けれども、静けさとは何もしないことではありません。
 それは、神が働いておられる余白を守る行為です。
 私たちはつい、神よりも先に動こうとします。
 けれども、待つこと自体が、神への最も深い応答なのです。
 なぜなら、待つというのは「信頼している証」だから。
 信頼していなければ、人は待てません。
 祈りとは、神に語りかけるだけでなく、神の語りを待つことでもあります。
 その時間に、私たちの内面がゆっくりと整えられ、望みが純化されていく。
 「遅れてくる神」を待つとは、自分の時間を神に譲り渡すことです。
 この譲り渡しこそ、信仰生活の核心と言えるでしょう。

Ⅵ. 「いま来つつある神」への目覚め

 最後に、こう考えてみたいのです。
 本当に神は遅れているのでしょうか?
 もしかすると、神は常に「来つつある」のではないでしょうか。
 私たちが“まだ来ない”と思っている間にも、神はすでに私たちの周囲で、見えない形で働いておられる。
 “遅れ”は神の側の遅れではなく、私たちの気づきが追いついていないだけなのかもしれません。
 神の到来はいつも静かです。
 雷鳴のような劇的な登場ではなく、胎内で鼓動する命のように、密やかに訪れます。
 「遅れてくる神」とは、実は「急がずに愛する神」。
 その方のリズムに自分を合わせるとき、私たちは焦りの中に平安を見出します。
 待つことがもはや“苦しみ”ではなく、“交わり”になる。
 その時、信仰は「待たされる信仰」から「共に歩む信仰」へと変わります。

結び

 待降節の旅路は、「早くクリスマスになってほしい」という時間の短縮ではなく、
 「神のリズムに調和していく」時間の拡張です。
 私たちが神を待つとき、実は神もまた私たちを待っておられます。
 神は遅れているように見えて、決して遅れない。
 むしろ私たちが早すぎるのです。
 だからこそ、待降節は“速度を落とす季節”。
 神の沈黙の中で、私たちの魂が呼吸を取り戻す季節です。
 「神はなぜ遅れるのか」という問いは、やがて「私はなぜ急ぐのか」という問いに変わる。
 そしてその問いの沈黙の中で、
 ――神はすでに来ておられる――
 という確信が、静かに芽生え始めるのです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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