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これってどんな種?

信仰を培うという種 年間第27主日(ルカ17・5〜10)

 「私の【信仰】ってどのくらいあるのでしょう。」って思ったことはありませんか? ここ数年、「AI」とか「生成AI」などという言葉をよく聞きますが、「『あなたの【信仰度数】」は何パーセントです』」。というように可視化できたとしたらどうでしょうか。ただ、このように一人ひとりの【信仰】を可視化できたとすれば、同じように【傲慢】になってしまう危険性もあるかもしれませんね。

 きょうのみことばは、使徒たちがイエス様に「わたしたちの信仰を増してください」とお願いする場面です。福音書の中には、イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と言われ場面がいくつかあります。例えば、イエス様の足を自分の髪でぬぐった罪深い女性(ルカ7・36〜50)、12年間も出血病で苦しんだ女性(ルカ8・40〜48)や、重い皮膚病を癒やされたサマリア人(ルカ17・11〜19)などと、【信仰】によってその人の罪や病気や願いがかなった場面があります。

 このような場面を目にするとき、【信仰】というのは、その人の行い、願いや生活の中で培われたものであって、「わたしの【信仰】はこれだけある」というものではないような気がいたします。イエス様は、その人の思いや、何かを一生懸命に願う気持ちの中にその人の【信仰】の深さをご覧になられるようです。

 きょうのみことばの前でイエス様は、自分の兄弟の罪を何度でも赦しなさい、と言われています。使徒たちは、人を赦すことの難しさを知っていたのでしょう。特に彼らは、四六時中一緒に生活をしていますからお互いのことをよく知っています。そのような彼らは、「兄弟の罪を赦す」ことの困難さを生活の中で嫌というほど実感し、「兄弟の罪を赦すことができない自分たちには、【信仰】をもっと増やすしかない」と思ったのでしょう。

 それで使徒たちは、イエス様に「わたしたちの信仰を増してください」と願ったのです。イエス様は、そのような彼らに「もし、あなた方に一粒の芥子種ほどの信仰があるなら、この桑の木に『根こそぎにされ、海の中に根を下ろせ』と言えば、言うことを聞く」と言われます。この中の「根こそぎにされ」とは、「草や木を根から(根も残さず)抜き取ること」、「そこに在るものがすべて取り除かれたり、奪われたりして、後に何一つ残らない様子」(『新明解国語辞典』)という意味です。【根】は、植物にとって栄養を吸収する大切なものですからその【根】がすべて無くなった状態で、しかも、海水の中に根を下ろすということはほとんど不可能なことです。また、後者の意味では、「ゼロの状態から何かを行う」ということですから、これもかなり困難なことと言えるでしょう。

 イエス様は、このような「不可能に近い」ことでも、「芥子種ほどの信仰があるなら」と言われるのです。使徒たちは、改めて自分たちの【信仰】の無さに気づいたのではないでしょうか。彼らは、イエス様のこの話を聞いて、「そのようなことができることがない、無理に決まっている。」と思ったことでしょう。私たちもそのように思うでしょうが、「無理」と思って諦めてしまうとそれまでですが、「そのような中でもなんとかできるかもしれない」という【希望】を持って一歩を歩み出すとき「【何か】が生まれる」ことがあるかもしれません。

 イエス様は、使徒たちに対して「あなた方のうちに、耕作か牧畜に携わる僕がいるとする。……」と喩えを話されます。この喩えの中で、一日中働いて帰ってきた僕に対して主人は、「わたしの夕食の用意をせよ。帯を締め、わたしが食事を終えるまで給仕せよ。その後で、食事をするがよい」と言います。私たちの中には、共働きでヘトヘトになって疲れて家に帰った後に、家族のために夕飯を作ることの辛さを感じている人も少なはないのではないでしょうか。そのような方にとって、この主人の言葉の厳しさが実感できるのではないでしょうか。

 さらに、イエス様は、「僕が命じられたことを果たしたからといって、主人が僕に感謝するだろうか。同じように、あなた方も命じられたことをすべて果たしたとき、このように言いなさい。『わたしは取るに足らない僕です。なすべきことを果たしたに過ぎません』」と言われます。この最後の「わたしは取るに足らない僕です。なすべきことを果たしたに過ぎません」という言葉を心から言えるというのが【信仰】の有無だとイエス様は私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。

 先ほどのどんなに疲れていても、家族のために夕飯を作ることができるというのは、そこに【愛】があるからではないでしょうか。パウロの手紙には、「神の力に支えられて、福音のためにわたしとともに苦しみを耐え忍びなさい。」(2テモテ1・8)、「あなたは、キリスト・イエスに基づく愛と信仰のうちに、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」(2テモテ1・13)とあります。

 私たちは、日常生活や信仰生活の中の苦しみがあることでしょう。そのような中でもイエス様への【希望】と【愛】のうちに【信仰】を培うことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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