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マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

35. 教区新聞の部数拡張運動――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

 アルベリオーネ神父が、第一次大戦後、アルバの教区週刊新聞(ガゼッタ・ダバル)の部数をふやすために、まずどのように計画を練り、どのように実践したかをみてみよう。そのころの部数は二千部前後、アルバ教区の全人口は一七万人。一世帯五、六人ぐらいだから約三万世帯になる。九九%は農家であり、文字を読める人は一七万のうち半分しかいない。アルベリオーネ神父は三万世帯のうち少なくとも三分の一の一万世帯に一部ずつ、「ガゼッタ・ダバル」誌を普及させようと望んだ。アルバの人たちは「そんなことは、ぜったいむりだ。字が読めない、忙しい農民がほとんどなのに誰が新聞を読むものか」と悲観していた。しかし、アルベリオーネ神父は、「やればできる。机上の議論より、とにかく実績をあげることだ」と、一にも二にも部数の増加をはすり、あらゆる力を集結させた。

 すでに神父のまわりには、一四、五人の青少年たちが集まり、マス・コミ布教を目ざし、活字を拾い、機械をまわしていた。それに加えて、アルバの、もと大神学生たちが八名集まってきた。第一次世界大戦に出征して、終戦後、復員してきた青年たちである。この青年たちは、教区の司祭として教会を受けもつよりも、修道会司祭となって時代の先端を行くマス・コミ布教に従事したいと熱望していた。アルベリオーネ神父は、この神学生たちについて、こう述べてる。

 「戦争が終わり、優秀な神学生たちが復員してきたが、彼らは戦時中に出会った新しい試練や苦しみにあって徳をみがき、また、使徒職についての広大な理解をもって帰ってきた。前線や野戦病院での生活は、彼らにキリストを信じる民に生じた新しい必要とは何か、自分たちがキリスト者としての勇気をもって忠実に奉仕してきた祖国が現代必要とするものは何か、ということを目ざめさせた。」

 しかし、大神学校の校長をはじめ、教区の顧問司祭たちは、復員した神学生たちが、パウロ会にはいることを不満に思い、青年たちにもう司祭になることを許さない、スータンを脱ぎなさい、と命じた。アルベリオーネ神父にたぶらかされて、商売をはじめた、というような誤解を受けたのである。またアルベリオーネ神父に対しても、霊的指導者としての信用を利用して、職権を乱用したと非難した。司祭になれないということでその青年たちはもちろん、肉親たちの悲しみは想像に絶するものがあった。その時もアルベリオーネ神父は、時のしるしを予見し、「だいじょうぶ、あなたがたを、きっと司祭にしてあげますよ」と言って、実行に取りかかったのが、次の一策であった。

 そのころ、アルバ教区では代議士の選挙が迫っていた。おもにせり合っていたのが社会党、自由党、人民党の三つである。社会改革をとなえるが、やり方が反キリスト教的で、階級闘争をあおり、互いの憎しみをましてゆく。自由党は、各町村の財産家、医者、教師、役人に多い支持者をえていたが、金をばらまいて自分たちの方に投票するように運動していた。

 その点、人民党は、社会党よりはるかに進歩的で、階級闘争より階級協力を目ざし、キリスト教精紳にもとづいて教会に対しても友好的であった。それでアルバ教区の聖職者たちはキリスト教的な人民党員を当選させなければ、教会はあぶなくなる、と不安に思っていた。

 「では、どうすればよいか。」アルベリオーネ神父は、「ガゼッタ・ダバル」を今こそ選挙のために、全力をあげて活用しようと決心した。ちみつな作戦を立て、自分のまわりに集まった青少年たちをフルに使った。日曜日やその他の機会を利用して、青少年に例の新聞を持たせ、手分けして町や村を戸別訪問させた。教会の神父を訪問したり、熱心な信者の団体に呼びかけたり、各家庭にはいって予約をとったり、町村の有力者を動かしたりして新聞を配達してまわった。

 とくに消極的な主任司祭の教会に出かけてゆき、「司教さまや神父さま方の了解をえて、ただいま私たちが手伝いにきました」という具合に、その教会で売店を開き、新聞を売り、予約をとった。教区の神父たちは新聞の部数をふやさなければならないことは百も承知している。信者たちに、その新聞を読ませたいと思っているが、実際には、いろんな理由で思い通りには行かない。それを聖パウロ会の青少年が補ったのである。出かけて行って、確実に何部か予約をとって修道院に帰ってきた。ただ誰かに頼むだけでなく、具体的に次週から何部とってもらえるかを確定して帰ってきた。そのため、二千部が三千、四千とみるみるうちに増加し、ついに目標の一万部に達したのである。その新聞の主筆はアルベリオーネ神父が担当し、町村の有力者にも、執筆を頼んで、いろんな問題をとり上げてもらい、世論の形成に重要な役割を果たした。

 販売拡張の仕事に実際たずさわったマルチェリーノ神父は、語る。

 「新聞をもって戸別訪問するわけだが、他人の家の前で、いくたび恥ずかしくて立ちすくんだ。どうやって新聞を勧めようか、ことわられはしないだろうか。いやみを言われるのではないだろうか。上手にしゃべれるだろうか、など不安はあった。しかし、そういう気持ちを追い払い、勇気を出して家にはいり、話を切り出すと、案外とんとんと話がまとまり、意気ようようと予約をとって帰ったものである。出かけて行って頭を下げ、新聞を人に勧め、予約をとるほうが、机に向かって読んだり書いたりするより、はるかに勇気がいる。赤面、失敗、恥ずかしさ、不愉快さに打ち勝つ意志力、実践力が必要だからだ。フリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父)は、強引にそれを私たちにやらせていた。あらかじめ各教会、各団体、各集会に呼びかけて根回しをしておき、それから部下の青少年を送って新聞購読拡張を具体化するのである。この作戦があたって部数はふえるし、人民党は選挙に大勝利を収めた。この選挙の勝利が、実に『ガゼッタ・ダバル』誌に負ったのは言うまでもない。」

 アルベリオーネ神父も、当時を回想して、次のようにのべている。

 「ガゼッタ・ダバル誌上に人民同盟について、たくさん寄稿した。一九一一年から一九一四年の間は、この人民同盟の定着をはかって、あるいは講演旅行のため、あるいは困難を打開するために、司教の指導のもとに、たっぷりふたりが、この任にあたっていたのである。

 時代を鋭く読み取ることができ、また、神の導かれておられたピオ十世は、『政治参加は適わしくない』という考え方に手かげんした時に、彼(アルベリオーネ神父)は、とくにカトリック信者に支持された立候補者の当選のために、数年間働いて成果をあげた。この成果は人民党(Partitp Popolare)がみごとに地盤を固め、ファシズムが台頭するまで、フリーメーソンと社会主義に対する城塞となった一団を議会の中に送り込むことによって頂点に達した。」

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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