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福者ジャッカルド神父

永遠の司祭職――福者ジャッカルド神父(23)

 アルバの司教は、ジャッカルドの司祭叙階の許可をなかなか出さず、冷たい素振りを見せていた。しかし、これは建て前であって、本音は、この神学生がどこまで本気になって司祭になりたいかを試すつもりであったらしい。ジャッカルドが「印刷学校」、つまり創立間もない聖パウロ会に入会する際にも、入会するなら「スータンを脱ぎなさい」と、きつい発言をして、ジャッカルドの司祭志望がほんものかどうかを試そうと、ジャッカルドのいちばん痛いところを突いたともいえよう。またそのころ、一部の聖職者の間で、アルベリオーネ神父とその事業に対して不信感が広まっていたことから、慎重になっていたとも考えられる。

 しかし、その間も、ジャッカルドはアルバ神学校に通学して神学課程を続けていたが、23歳の時には、この四年間の課程をほとんど修了していた。そこで、アルベリオーネ神父署名入りの叙階許可申請書を司教に提出したところ、思いがけなくも、それが許可された。そして、1919年6月22日に教会奉仕者に選任され、一週間後に、副助祭に、同年9月20日、助祭に叙階されたのである。この時の状況を、ジャッカルドは、その日記に次のように書いている。

 主よ! あなたの祭壇にまで私を召し上げてくださいましたが、この私がいったい何者ですか? 主よ! 私の体にしても、人柄にしても、大したものではありませんが、それでもあなたは、これを聖霊の神殿にしてくださいます。主よ! 私を清め、よい性質をもった、聖なるものにしてください。あなたの霊を私に与えて、この霊が私の中で効果を表すようにしてください。マリア様、真理の霊および愛の霊の多くの賜物を、教会のためにも、出版使徒職のためにも、人びとのためにも私に与えてください。神様、私の中においでください。そして叙階の時の初念を、すなわち謙遜、愛徳、苦痛、祈りの初念を、実生活に生かせるように導いてください。

 この祈りの中に「苦痛」とあるのは偶然ではない。前年の1918年10月以来、ジャッカルドの母親が病の床に節、腹部に鋭い痛みを感じていたからである。アルバのサン・ラザロ病院の専門医に診てもらったところ、膵臓の悪性腫瘍と診断され、ガン治療法の発達していない当時では、ナルツォーレの実家に帰って養生するほかはなかった。

 その後、別の医者の紹介でトリノのマウリチアーノ病院で精密検査を受けたが、そこでも、膵臓の末期悪性腫瘍で、手の施しようがないという診断であった。ジャッカルドの母は、深刻な病状を直接に告知されなくとも、自分の最後の近いことを悟り、せめて息子の司祭になるのを見たい……できれば息子の手から病者の塗油の秘跡を受け、最後の聖体を拝領させていただくまでは生き述びたい……という一心であった。息子ジャッカルドも、聖母に向かって「母と私の願いがかなえられるよう、お恵みを取り次いでください」と祈り求めた。

 しかし、ジャッカルドの司祭叙階までには、まだ8日間もある。母の命はその日までもつか……という不安が、関係者の心をよぎっていた。アルベリオーネ神父は、そのあたりの事情を察知し、司教から“ジャッカルドの叙階の日取りを早めてよい“という許可を取りつけたのである。
こうしてジャッカルドは、1919年10月19日、23歳の時に、アルバ神学校の聖堂においてジュゼッペ・フランシスコ・レ司教から司祭に叙階された。当日の夜に書かれてジャッカルド神父の日記は、次のとおりである。

 今日は、私にとって忘れられない日です。私の生涯の中でもっとも美しい日です。司教様は私を司祭に叙階したくださいました。私は自分を取るに足りないものと思っていますから、謙虚な心で、神に感謝しながら、愛と信仰の念を込めて最高の要職に上りつめました。私の魂は、朝方「ゆるしの秘跡」を受けて浄められ、安らいでいます。私に対して寛容であられ神様の憐れみに全幅の信頼を置いていたからです。私は床に平伏して、全教会に、すなわち天国の霊魂・煉獄の霊魂・地上の信徒に、“祈ってください“と願いました。イエス様を抱きしめて、“そのみ心のままに“と無我夢中でした。

 神様からこのような要職に召されてからは、とりわけ信仰・愛・感謝でいっぱいでした。私は当惑のあまり、“神様は、どうして私みたいな者を選んでくださったのだろう“という驚きを禁じえませんでした。

 ジャッカルド神父は、司祭叙階後ただちに、臨終の母のもとにご聖体を持っていった。この時の母と息子の感動は、いかばかりであったろうか!

 翌20日の初ミサは、ナルツォーレのサン・ベルナルド教会で行われた。聖堂内は満員で、立錐の余地もないほどであった。聖堂の入り口では、主任司祭ヴァッカネオ(Vaccaneo)神父が、大勢のミサ奉仕者たちとともに新司祭を待っていた。新司祭が現れると、一人の中学生が詩情あふれる祝辞を新司祭に向かって読み上げた。ミサは祈りと歌を交互に交えながら進行した。福音朗読後の先輩司祭の説教は、新司祭誕生の喜びとその母の臨終の悲しみを表す内容で、聴衆の涙をそそった。ミサの最後には、ジャッカルド神父の感謝の言葉が述べられた。

 このミサの後、聖堂から出てきたピノトゥの小学校の先生であったイザイア(Isaia )は、新司祭を涙ながら抱きしめて、「おお、ピノトゥ、あなたは私たちみんなを泣かせてしまったよ!」と叫ぶのだった。その後、主任司祭がジャッカルド神父の親戚全員および町のおもだった人びとを司祭館に招いて祝宴を設け、賑やかに新司祭の門出を祝った。

 さて、ジャッカルド神父の母親は、息子の司祭叙階の日から八日間生き述びた。ジャッカルド神父は、その逝去の日まで毎朝ご聖体を母に拝領させ、愛情込めて病人の看護をし、死の準備もさせた。そして、母親が息を引き取るのを見届けたジャッカルド神父は、亡き母のそばで、ひざまずいて祈り続けた。これを見ていた父親の話によると、「ジャッカルド神父を見ていた大勢の人たちは、母親に対する神父の深い愛情にふれて、感涙にむせんでいました」。

 ジャッカルド神父の司祭叙階の日は、パウロ家にとっても歴史的な日となった。創立者のカリスマを信じて、時代を先取りした広報使徒職専門の聖パウロ会最初の司祭、いわばパウロ家司祭職の初穂になったからである。しかもこの司祭叙階は、聖パウロ会会員は司祭になれないのではないかという後輩たちの不安を一挙に吹き飛ばし、「高速で、しかも高性能の」新鋭機器を使って福音宣教ができると約束した創立者への信頼を深めたからである。しかし、このことが全教会から受け入れられ、公式に認められたのは、実に、この日から四十四年後のことであった。1963年12月4日、第二ヴァチカン公会議は「広報機関に関する教令(インテル・ミリフィカ)」を公布し、マス・メディアを使徒職の手段、司祭職の重要な側面として公認したのである。

・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。

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