アルベリオーネ神父はパウロ家の全会員に次ぎのように遺言している。「全会員は使徒パウロを父、教師、創立者と考えねばならない。ほんとうにそうなのだから。彼を通してパウロ家は生まれたのであり、彼によって栄養を受け、成長し、彼から精神を受けた。……聖パウロは、聖師をあらゆる面から知っていた弟子であり、キリストに全く生きた人である。キリストの教え、そのみ心、その聖性、その人間性および神性の深い神秘をくまなくさぐった方である。」
アルベリオーネ神父は、聖パウロに似た性格をもっていた。おそらく。そのために聖パウロを好み、これを保護者に選んだのであろう。神父はこう述べている。
「聖パウロは万国の聖火である。彼を賛嘆し、信心するようになったきっかけは、とくにローマ人への手紙の研究と黙想であった。
それ以来、人格、聖徳、心、イエスとの親しさ、教義と倫理に関する彼の著述、教会制度に残した功績、全人類に対する彼の熱心などは黙想の材料であった。パウロこそ本物の使徒であると彼は思われた。それゆえ、どの使徒もどの使徒職もパウロから学ぶことができた。パウロ家は聖パウロに奉献されている。
……聖パウロの偉大さのすべての秘訣は、内的生活にある。彼は内面性のゆえに偉大であると言えよう。彼の偉大な清貧の精神、深い学識、イエスへの愛、節欲の精神によって卓越している。人びとの前に名声を博する恵みを聖パウロに願うのは空しいことである。第一に神によみせられること、次ぎによにおいて使徒となる恵みを願わねばならない。
……聖パウロは、私たちのために鋳型となった。私たちはイエス・キリストをつくり出すために、彼のうちに鋳造である聖パウロは、身体的容姿をつくるものではなく、彼の人格、すなわち、考え方、徳、熱意、信心などを完全に伝えるために用立てられるものである。」
……もしこの世代に聖パウロが生きていたなら、神とキリストへの熱意、すべての国の人びとを思う熱意に燃えることであろう。この二つの熱意は、一つの火から燃えあがる二つの炎となる。さらに、彼は神を知らせるために広い壇上にのぼり、あるいは、出版、映画、ラジオ、テレビなどの現代の手段を用いて、そのことばを増加させるであろう。
……私たちパウロ家が聖パウロを選んだのではない。彼が私たちを選び招いたのである。ということは、とりもなおさず、彼が現代生きていたならば、なすであろうことを、私たちがおこなっているからである。」
彼は聖パウロの取り次ぎによって、奇跡的に病気をなおしていただいたことがある。まだ若い司祭のころ、ローマの聖パウロの墓に来たことがあった。アルバでは使徒聖パウロにささげた大聖堂を建てた。ローマの修道院は、聖パウロの墓のある大聖堂の近くに創設することを望んだ。聖パウロへの信心からパウロ的精神が生じる。
このパウロ的精神とは、アルベリオーネ神父によれば、聖パウロの生涯を模倣すること、その手紙や使徒言行録にのべられている教えを黙想すること、聖パウロのように人びとの魂への熱意とキリストへの愛をもつこと、聖パウロが教えたキリスト論の光にあててイエスを研究すること、聖パウロのように教皇へ忠誠を尽くし、教会を愛することである。
とにかくアルベリオーネ神父は、こう述べている。「聖パウロの精神は、その生涯、その手紙、その使徒職から明らかになる。パウロは教理、倫理、礼拝、教会の組織のうちにいつも生きている。偉大さの秘訣は、キリストの生命に生きることによってかみに学ぶことである。だから、私たちが教会の中で、教会のために生き、働く必要、聖体のキリストという非常にたいせつなオリーヴに野生のオリーヴのようにつぎ木される必要、聖パウロの精神に従って福音のあらゆることばを考え、それをかてとする必要は、わたしたちにとって明白なことである。」
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。