書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

おうち黙想

第五週:光の玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

日常のただ中に射し込む光

――「光の玄義」に見る、神と共に生きる力

Ⅰ 神は“特別な瞬間”ではなく“今日”におられる

 ロザリオの四つの玄義のうち、「光の玄義」はもっとも日常的で、もっとも“地味”に感じられるかもしれません。
 受胎や復活のような劇的な出来事でもなければ、十字架や昇天のような歴史の転換点でもありません。
 それは、イエスが人々と歩き、語り、招き、食卓を囲んだ日々の中の出来事です。
 しかし、疲れきった心にとって、ここにこそ最も深い救いがあります。
 なぜなら、私たちの人生の大部分は「奇跡」ではなく、「普通の一日」だからです。
 劇的な瞬間は人生のほんの一部。ほとんどの時間は、目立たない繰り返しの中で過ぎていきます。
 神が“光”として現れるのは、そうした地味で単調な毎日のただ中です。
 「今日」という平凡な一日の中に、神のまなざしが潜み、私たちを包んでいます。
 光の玄義は、その「今、ここ」に神が生きておられることを思い出させる祈りです。

Ⅱ 第一の光 ― イエスの洗礼:「神は『このままのあなた』を喜んでいる」

 イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、天から声が響きました。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 注目すべきは、このときイエスがまだ何の奇跡も起こしていなかったということです。
 教えも説かず、病人も癒さず、十字架にも向かっていません。
 それでも父なる神は、「愛している」と告げられました。
 私たちは、何かを「成し遂げた」ときに愛されると思い込みがちです。
 人の役に立ったとき、評価されたとき、努力が実ったとき。
 けれど神の愛は、始まりの時点ですでに与えられているのです。
 何かを成し遂げる前に、「このままのあなたが、わたしの喜びだ」と宣言されている。
 元気をなくしているとき、「何もできていない自分」を責めてしまいます。
 でも神は、その“何もできていない”あなたにこそ、「愛している」と語ってくださっています。
 ロザリオの珠をなぞりながら、この声を心の奥で静かに受け取ってください。

Ⅲ 第二の光 ― カナの婚礼:「神は小さな喜びを大切にされる」

 婚礼の席でぶどう酒が足りなくなった――この出来事は、ある意味で取るに足らない「生活の困りごと」です。
 それは飢饉や戦争や死のような大問題ではありません。
 それでもイエスは、その小さな“困りごと”に介入し、水をぶどう酒へと変えられました。
 ここに、神の心が映し出されています。
 神は、あなたの小さな心配ごと、取るに足らない悩みも、大切なこととして受けとめてくださるということです。
 元気が出ないとき、私たちは「こんなことで神に祈るなんて」と自分の痛みを軽視してしまいます。
 けれど神は、「あなたにとって大切なこと」は「わたしにとっても大切なこと」だと語ってくださる方です。
 小さな喜び、小さな幸せ、小さな問題――そのすべてが、神の関心の的なのです。

Ⅳ 第三の光 ― 神の国の宣教:「今の現実の中で、神の国は始まっている」

 イエスの宣教は、「神の国は近づいた」という宣言から始まりました。
 神の国――それは遠い未来の理想ではなく、「今ここで」芽生え始めている現実です。
 私たちはしばしば、「こんな状況では神の働きなど起こらない」と思います。
 心が乱れているとき、生活がバラバラなとき、信仰が弱っているとき――「神の国は、もっと整った人のところに来る」と思ってしまうのです。
 しかしイエスは、まさに貧しい人の中で、傷ついた人の中で、罪人の中で「神の国はすでに始まっている」と語られました。
 神の国は、あなたの現実の中ですでに芽を出しています。
 混乱のただ中、涙のただ中、迷いのただ中で、神は静かに働いておられます。
 ロザリオを祈るとき、「いつか」ではなく、「今」への信頼が育まれます。
 「この瞬間こそが、神の国の入口なのだ」と心に刻んでください。

Ⅴ 第四の光 ― 変容:「本当の自分は“神の光”を帯びている」

 タボル山でイエスが光り輝いたとき、弟子たちはただ恐れ、ひれ伏すしかありませんでした。
 あの光は、イエスだけのものではありません。それは、人間という存在が本来帯びている「神の像」の輝きです。
 私たちが落ち込むとき、心の中は「自分には価値がない」「何もできない」「意味がない」という言葉で満たされます。
 しかし神は、私たちの奥深くに誰も消せない光を宿しておられます。
 たとえ心が曇っていても、その光は失われません。
 たとえ罪を犯しても、弱くても、間違いを重ねても、その光は消えないのです。
 それは、神が「あなたを私のかたちとして造った」という事実そのものだからです。
 ロザリオの祈りは、その光をもう一度感じ取るための時間です。
 珠を一つずつたどりながら、自分の内に今も輝いている「神の光」を静かに見つめてみましょう。

Ⅵ 第五の光 ― 聖体の制定:「神はあなたと共に“生きたい”と願っている」

 最後の晩餐でイエスは、パンを裂き、「これはわたしのからだ」と言われました。
 聖体の神秘とは、神があなたの命の中に住みたいと望んでいるという驚くべき事実の表現です。
 私たちはしばしば、神との関係を「上から下へ」「遠くから近づいてくるもの」と考えます。
 けれど聖体の神秘は、神が「あなたの中に入りたい」と言ってくださる出来事です。
 神は、あなたの人生の外から見守るだけでなく、あなたと共に息をし、共に歩き、共に痛み、共に喜びたいのです。
 それは、どんな孤独の中にも、神が「共にいる」という究極の約束です。
 人生のどんな瞬間にも、「あなたの中にいる神」が、静かに脈打っていることを忘れないでください。

結び ――光は“外”からではなく“内”から射してくる

 光の玄義が教えてくれるのは、神の愛が「特別な瞬間」だけに注がれているのではないということです。
 むしろ、毎日の生活の中こそが、神の愛の舞台です。
 神は、私たちが完璧になってから愛してくださるのではありません。
 何もできていないときに、「あなたはわたしの喜びだ」と言ってくださいます。
 小さな悩みにも心を向け、混乱の中にも働き、私たちの奥深くに光を宿し、その光を「ともに生きる」かたちで与えてくださいます。
 だから、もし今あなたが疲れ切っているなら、奇跡を探すのをやめてください。
 “劇的な救い”ではなく、日常のささやかな光に目を凝らしてみてください。
 朝の光、誰かの笑顔、祈りの静けさ、その一つひとつが神の訪れです。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. 第五週:光の玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

  2. 狭い戸口、広い食卓──神の国の逆説的な招き(年間第30水曜日)

  3. 第四週:栄えの玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

RELATED

PAGE TOP