マタイによる福音書23章27–32節
27 「律法学者やファリサイ派の人々、あなた方偽善者は不幸だ。あなた方は白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えても、内側は死者の骨や、あらゆる汚れに満ちている。 28 このように、あなた方も、外側は人の目には正しい人のように見えても、内側は偽善と不法に溢れている。 29 律法学者やファリサイ派の人々、あなた方偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりして、こう言う、 30 『もし、われわれが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流した彼らに与することはなかった』。 31 こうして、あなた方は預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 32 あなた方は、先祖の升を満たすがよい。
分析
マタイによる福音書23章27–32節は、イエスが律法学者とファリサイ派に向けて語る「七つの災い」の中の一部であり、その言葉の鋭さ、怒りの熱さは、単なる宗教的論争を超えた神の義と人間の宗教の衝突を象徴する場面です。ここでは特に、「白く塗られた墓」と「預言者の墓を飾る者」という、死と記念をめぐる二重の比喩が用いられています。
「白く塗られた墓」とは、当時のユダヤ社会で、祭りの際に人々がうっかり触れて汚れとならないように、墓を石灰で白く塗った風習を背景としています。一見美しく整えられているが、内側には死の現実、腐敗と汚れが潜んでいる。この比喩は、外面的な敬虔さや正しさを保ちつつ、内には偽善や欲望、支配欲といった霊的死が巣食っている宗教的リーダーたちへの痛烈な告発です。
28節では、「人の目には正しく見えても、内側は偽善と不法に満ちている」と断言されます。ここで重要なのは、「見えること」への依存と、「神の目」の不在です。ファリサイ派の問題は、律法を守ることではなく、それを自己顕示と権威の道具にしてしまっていること。信仰が「自己を神の前に開く謙遜な応答」から、「他者に対して閉ざされた支配の道具」へと堕落する危険がここに描かれています。
続く29–32節では、彼らが「預言者の墓を建て、記念碑を飾る」という行為を通して、自分たちの正しさを誇ろうとする姿勢が問題視されます。「もしわれわれが先祖の時代にいたなら…」という言葉は、過去の罪を否認することで、自分たちはその系譜にいないと主張する論理です。しかしイエスはその自己免罪的態度こそが偽善だと断じ、「あなた方は殺した者たちの子孫だ」と宣告します。ここでの「子孫」とは、単なる血統ではなく、「同じ霊的態度に連なる者」という意味であり、形式的信仰が真理の証言者を迫害する歴史を繰り返しているという厳しい告発です。
最後の一言、「あなた方は、先祖の升(ます)を満たすがよい」は、神の裁きの時がすでに満ちようとしていることを暗示します。人間が積み上げてきた偽善と拒絶の歴史が、やがて神の怒りを招くに至るという、終末的預言的語りがここに凝縮されています。
神学的ポイント
このテキストの神学的主題は、「神の義と人間の宗教的装いの根本的断絶」にあります。ファリサイ派や律法学者たちの問題は、律法を大切にしていたからではありません。むしろ、律法という神の贈り物を「自分たちの義」を確立するためのツールに変えてしまったからです。信仰はいつでも、神に仕える営みから、人を裁く手段へと変質しうる危険を孕んでいます。
イエスは「白く塗られた墓」という比喩で、外側の清さと内側の腐敗という対比を通して、形式的敬虔さの危険性を暴き出します。これは単なる道徳批判ではありません。むしろ、神の目に見える真実とは何かという、存在論的な問いを突きつけるものです。
また、預言者の墓を飾る行為は一見敬虔でありながら、過去の神の声に形式だけ応答しつつ、今を生きる神の声には耳を塞いでいるという皮肉を浮き彫りにしています。イエス自身がこの直後、エルサレムへの嘆き(マタイ23:37)を語るように、預言者を殺した歴史は、イエスという「最後の預言者」によって完結へと導かれるのです。
ここにあるのは、宗教的アイデンティティの安定を求める人間の傾向に対し、神が絶えずそれを破壊しようとされる姿です。神は、自己正当化や形式の内に安住する私たちを、「心の中心」での応答にまで導こうとされます。
講話
このたとえは、現代に生きる私たちにとっても極めて挑戦的な問いを突きつけます。私たちは、外側をどれほど整えていても、神の目には内側が見えているという現実を、どれほど真剣に受け止めているでしょうか。
私たちは、自らの信仰を「白く塗った墓」にしてしまっていないでしょうか? 礼拝に出席し、奉仕をし、祈りを捧げながらも、内側では他者を裁き、赦さず、心を閉ざしている。神の言葉に耳を傾けるふりをしながら、自分の価値観の枠内でしか神を受け入れようとしていない。そのような自己欺瞞こそが、イエスの語る「偽善」の本質です。
また、過去の信仰者を尊ぶ一方で、現在の預言的な声、すなわち社会の周縁から語られる叫びや、既存の教会構造を揺さぶるような批判に対して、私たちは耳を塞いでいないでしょうか? 預言者の墓を飾りながら、生ける神の声を殺す——それが、この世代の信仰の危機です。
イエスは言います、「先祖の升を満たすがよい」。この言葉は、単なる呪いではありません。それでも神が語り続けておられることを示す、最後の招きでもあります。真の悔い改めは、外側を白く塗ることではなく、内側の死と汚れを認め、その上に神の恵みを求めるところから始まります。
イエスは、白く塗られた墓の中にまで降り、そこに命を注がれる方です。私たちの偽善の奥にある空虚を、恵みで満たすことができるのは、ただこの方だけです。今こそ、装いを脱ぎ、心の中心から神の光に向かって開かれる時です。墓ではなく、生きた神の宮として、歩み直しましょう。