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マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

10. 親友アゴスチノ・ボレロ――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

 同病相あわれむというか、ヤコブは病身の同級生アゴスチノ・ボレロ(Agostino Borello)と、とくに親しかった。彼は聖人タイプで、ヤコブとは性質が似通い、よく気が合っていた。ヤコブは生涯、この親友のことを忘れず、「自分の召命はボレロのおかげである。あの精紳敵な危機にボレロの祈りと手本が自分の支えとなった」と言っていた。ボレロの妹ジョゼッピーナは、兄について、こう語っている。「兄は家庭の事情でしばらく家に帰り、その後、復学してみると、親友のヤコブがいないので、非常にがっかりしました。それでヤコブに『いつか、また帰ってこいよ』と手紙を出したそうです。ヤコブは、このわけで、私の兄よりも一年おくれて(一九○二年十二月八日)着衣したと思います。

 兄は着衣して間もなく、クリスマス休みに家に帰って来ましたが、私は遠慮して兄のそばには寄らず、すみっこに座っていました。すると、兄は私を抱いて、『ぼくは、相変わらずおまえの兄だぞ』といっていたのを覚えています。」

 ヤコブとアゴスチノは、お互いに勉学のこと、未来の仕事のことについて語り合い、司祭になるまで祈り合い、助け合って行こうと約束したのであった。

 アゴスチノの妹の話を続けよう。「アゴスチノは着衣してから数ヶ月後に大病を患い、家に帰って療養していました。友人のヤコブはすぐ見舞いに来ました。その後も、しばしば来ていました。『友だちのヤコブが来ましたよ』と言うと、兄はとても喜んでいました。

 私たちは、兄のすぐそばに行くのを禁じられていました。病気が伝染すると思われていたからです。私と妹が病室のドアを開けて兄に『アゴスチノ、何か欲しいものがありますか?』とてずねると、兄は、『私にせっぷんしてくれ』と答えました。その日の午後に病気は悪化し、夕方には臨終のもだえが始まり、最期に兄は力強くこう言いました。『すべてはイエスのため、すべてはイエスのため』と。一九〇二年六月二日のことでした。アルバの神学校の哲学、神学教授フランシスコ・キエザ神父や、ヤコブ・アルベリオーネをはじめ、同級生全員が兄の葬式に参列しました。葬儀ミサ中、キエザ神父は、美しい、感動的な追悼説教をしました。墓地ではヤコブがアゴスチノの思い出を語り、参列者の涙をそそりました。私はある人が、こういうのを聞きました。『この部落(カノヴェ)では、このような盛大な葬儀は、もうめったにあるまい』と。

 ヤコブには、親友アゴスチノの死去がとてもこたえたらしく、美しい追悼詩を造っているが、ヤコブの亡き親友を思う切々たる愛情が詩になってほとばしり出たものと思われる。これはヤコブの真心を知る上に貴重な資料であり、同時に、ヤコブの豊かな詩才を示すものである。故郷の主任司祭がこれを保存し、のちにローマの聖パウロ会本部に送り届けたという。その追悼詩の一部をここに紹介してみよう。

 「私は、アゴスチノに会おうとして神学校へ行ってみたが、君はそこを出たあとで、会えなかった。それで私はカノヴェ(Canove=アゴスチノの部落)へ足を運んだ。その朝は、晴れ渡っていた。しかし、自然の詩情は、私の心を少しも魅つけなかった。私は何も見なかったし、何も聞かなかった。私の周りで起こることについては、何も感じ無かった。『アゴスチノはどこにいる?』という考えのみにとらわれて、私は歩みを進めた。私は長い道のりも気にならず、ついに目ざす部落の塔や何軒かの家々が目にとまりだした。心臓の鼓動はいっそう高鳴り、創造力は、いよいよ高まり『アゴスチノはどこにいる?』と口ごもるのであった。

 その村に入り、私は教会とよく知っている家との中間の所に来た。私は最後のどたん場に来た。『アゴスチノはどこにいる?』ある部屋にはいって行く。その中に白いベッドはあるが、しわひとつない。『アゴスチノはどこにいる?』私は、発作的な衝撃にかられ、その家から出て教会の中にはいってみた。すると、そこには神学生が集まっていた。私は熱心にアゴスチノをさがし、『アゴスチノはどこにいる?』と自問しつつ、神学生たちをながめたが、その中にはいなかった。

 聖堂内には葬儀の準備がしてあった。中央に、霊柩が、ひときわ目立っていた。私はひざまずき、目は涙にぬれ、あたりは暗いやみのようになって名にも見えなかった。荘重な『レクイエム・エテルナム』の歌声が耳に響き、心にこだまして『レクイエム』と答え、胸の張り裂けるようなうめき声を発する。ミサが荘厳に立てられたのち、教会から出て、野辺の送りをする。悲しい思いに畏れわななきながら前進した。同級生にも樹木にも、花にも、すべてに向かって、『アゴスチノはどこにいる?』とたずねてみたが、みんな静まりかえっていた。

 私たちは不滅である。アゴスチノは生きている、まだ生きている。いっそう美しく、いっそう純粋に生きている。」

アゴスチノの死後、ヤコブはケラスコの実家に帰ってきたが、もう以前の彼ではなかった。アゴスチノの墓前で前途を決心し、堅く約束した。

 「アゴスチノ、さようなら、さあ出発しよう。君のあとに続いて行くよ。人生の戦いには君に倣うつもりだ。さようなら」と。

 一九〇四年にボレロの墓石に彫られた碑銘文には次の意味がある、とアルベリオーネ神父は回想録に書いている。

 「自分自身の救いのためにも、使徒職をいっそう実りあるものとするためにも、知・情・意のすべてをふくめた全人格を発展させる必要があるという考えがいつも根底に残っていた。彼が一九まる四年、友人ボレロの墓にしるしたことばが示しているのは、このことである」と。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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