序)日本26聖人殉教者は、他の国では「パウロ三木と同志殉教者」、フランシスコ会では「ヨハネ・バプティスタと同志殉教者」となっている。日本では一般に「日本26聖人殉教者」と呼ばれている。
<殉教の背景>
*1549年、聖フランシスコ・ザビエルがキリスト教の種を蒔き、厳しい批判に耐えながらも、大名や武士の間に地盤を築いていった。それから38年後には、迫害の嵐が始まった。1587年、豊臣秀吉は宣教師追放令を出し、日本国内での宣教を禁止した。しかし、信者たちの信仰心は高まり、洗礼を受ける者が増え、秀吉は見せしめのために、京都、大阪の信徒を捕らえて市中を引き回し、26人が長崎の西坂で殉教した。
*フランシスコ会関係では、ヨハネ・バプティスタ神父をはじめ会員6名、イエズス会関係では、パウロ三木神学生をはじめ会員3名、信徒15名の合計24名で、他二人は長崎での道中で加わった。
<殉教者たちの人物像>
*ペトロ・バプティスタ神父はスペイン人で、徳と学識の高い司祭だった。フィリピンの長官の使節として来日し、秀吉と謁見して、日本とフィリピンの間に修交条約を結び、布教の許可をもらった。京都、大阪、長崎で活動し、一万人に洗礼を授けたと言われる。
*パウロ三木は徳島出身で、5歳の時に洗礼を受け、10歳のころ、安土のセミナリオで司祭コースの勉強をしていた。しかし、当時司祭が足りなかったので、布教活動に回された。
*トマス小崎はヨハネ・バプティスタ神父やフランシスコ会士の清い生活を見て、小崎一家5人で洗礼を受けた。その時、トマスは十二歳だった。
*アントニオ少年は父が中国人、母が日本人だった。ヨハネ・バプティスタ神父が長崎で建てた修道院でミサの奉仕者をしていた。やがて京都に移った。しばらくして、大阪のフランシスコ会の修道院で教育を受けていた。
<足跡>
*1597年1月3日、殉教者たちは左の耳たぶをそがれ、牛車に乗せられて京都の目抜き通りを引き回された。
翌日、雪がちらつく中、着のみ着のままで伏見、大阪、堺の町を引き回され、長崎までの800キロの道のりを進んだ。
岡山付近で二人のキリシタン青年が一行に加わった。
広島の三原に着いた夜、十五歳のトマス小崎は母親に遺書を書いている。
十二歳の最年少のルドビゴ茨木は、唐津で誘惑を受けるが、きっぱりと断っていく。
2月4日の夜、寒い北風の中、彼杵(そのぎ)から時津に上陸した。夜の十一時で、そのまま長崎に向かった。2月5日の早朝、浦上のハンセン病院に到着。そして西坂の丘に到着した。約4000人の信者たちが見る中、彼らは殉教していった。
殉教者たちは一か月以上、十字架の上にさらされた。
1862年6月8日、教皇ピオ九世によって列聖された。
長崎の西坂には資料館がある。