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ご存知ですか? 1月21日は聖アグネスおとめ殉教者の記念日です

 聖アグネスおとめ殉教者の記念日は1月21日です。聖アグネスは、12歳、あるいは13歳のときに、ローマで殉教したようです。彼女の信仰の模範は当時のキリスト者たちにとって大きな励ましとなったようです。後に、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌス、聖ヒエロニモ、教皇聖グレゴリオ1世らが彼女を称賛したこともあり、彼女に対する信心は急速に広まっていきました。

 しかしながら、聖アグネスの生涯について、わたしたちはあまり多くのことを知ることができません。出生から殉教に至るまでのことは明らかではありませんし、殉教の様子についても、いくつか残されている殉教物語の記述は必ずしも一致していません。殉教の時期についても、3世紀半ばのデキウス帝による迫害(250〜251年)、あるいはヴァレリアヌス帝による迫害(258〜260年)のときとする説もありますし、4世紀初頭のディオクレチアヌス帝による迫害のときとする説もあります。しかし、その中心となるメッセージは明確です。つまり、キリスト教禁教の中で捕らえられた少女アグネスが、女性であり、子どもであるにもかかわらず、武力や拷問によって棄教をせまる人々に対して、最後まで信仰を貫いたということです。信仰が人間的な強さ・弱さの尺度を打ち破り、社会的に弱者とされている人々にいかに偉大なわざを行わせるかということを、彼女の殉教は示しているのです。

 さて、聖アグネスを荘厳に記念するミサでは、マタイ福音書13章44節から46節までが朗読されます。ここには同じような2つの短いたとえが続けて記されています。一つは、畑に隠された宝を見つけた人のたとえ、もう一つは、高価な真珠を見つけた人のたとえです。どちらも、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」のです。

 最初のたとえの登場人物は、雇われて畑を耕している人のようです。それほど裕福な人ではないのでしょう。二番目のたとえの登場人物は、真珠の商人ですから、最初の人に比べるとお金を持っているように思われます。いろいろな読者が、自分を登場人物に重ね合わせやすいように配慮されているようです。

 また、最初のたとえでは、畑を耕していた人が、たまたま宝を見つけたように読み取れます。彼は、別に宝を探し求めて、その畑を耕していたわけではありません。しかし、二番目のたとえでは、商人が良い真珠を日ごろから探し続けていた様子が記されています。その一方で、最初のたとえでは、「畑に宝が隠されている」と言われていますので、だれかが意図的に宝を隠しておいたことが分かります。最初のたとえでは、神がその人のためにあらかじめ宝を用意しておいた点が強調され、二番目のたとえでは、宝を探し求める登場人物の主体性が強調されているのかもしれません。このように、2つのたとえは互いに補い合って、メッセージを豊かにしているようです。

 いずれにしても、両方のたとえが言いたいことは、宝、あるいは高価な真珠を見つけた人が、持ち物を「すべて」売り払って、それを買うということです。持ち物をすべて売り払ってでも買う価値をそこに見いだし、実際にすぐそのように実行した。この宝こそ、「天の国」であり、神からの救いであるということです。わたしたちキリスト者は、神の救いを願い求めているのですから、この2つのたとえのメッセージは当たり前のことのように思えます。しかし、いざ現実にあてはめてみると、それがいかに困難なことか分かるのです。

 確かに、「宝」や「高価な真珠」はすばらしいものです。ぜひとも手に入れたいと思います。しかし、「すべての財産を売り払って」となると、ためらってしまうのです。わたしたちは生活していかなければなりません。食べていかなければなりません。いくら宝が隠された畑であっても、いくら高価な真珠であっても、それが毎日のかてを与えてくれるわけではありません。今後のことを考えると、当面の生活資金くらいは確保しておきたいと考えてしまうのです。

 「持ち物をすっかり売り払う」ということは、実はそこから生じるさまざまな現実的問題を引き受けるということも含んでいるのです。当然、そのような問題を引き受けてでも、手に入れる価値が「天の国」にはあるという確信が、その人の中に備わっていなければ、「持ち物をすっかり売り払う」ことはできないでしょう。

 聖アグネスに限ったことではありませんが、殉教者には殉教に至るまでの歩みがあります。すぐに命を絶たれるわけではないのです。身体的責め苦、精神的辱め、甘い誘い、家族や知り合いへの影響……。天の国を選び取ったからといって、現実の苦しみがなくなるわけではありません。だからこそ、こうした苦しみを引き受けてでも、天の国は求める価値があるということを確信し、この確信を育てていかなければ、いざ殉教の機会が訪れても、すべてを捨ててこの「宝」を得ることはできないでしょう。

 わたしたちには、「殉教」という機会は訪れないかもしれません。しかし、それとは異なる形で、「天の国」を得る機会が神から与えられることでしょう。そのときに、はたしてすべてを捨ててでもこの宝を得ることができるでしょうか。そのときのために、今から天の国のすばらしさをもっと感じ取る歩みを行っていければと思います。

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