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修道会ニュース

パウロ家族「みことばの年」閉年のミサと講演会が行われました

 2021年11月28日(日)、聖パウロ修道会若葉修道院にて、パウロ家族「みことばの年」閉年のミサと講演会が行われ、パウロ家族の兄弟姉妹、協力者ら約50名ほどが参加しました。
 なお、閉年式の様子はユーチューブでのライブ配信で見ることができます。

ミサ説教(待降節第1主日)

 わたしたちパウロ家族の創立者である福者ヤコブ・アルベリオーネ神父が帰天した日、そしてその典礼暦上の祝日は11月26日です。総長のメッセージでは、しばしばこの日を「天における誕生」、「永遠の過越」と呼んでいます。まさに、この世を過ぎ越し、永遠に神に栄光を帰すため、永遠のいのちを受けた日だからです。アルベリオーネ神父の帰天は1971年のことでしたので、今年はそれから50年にあたる記念の年です。ローマでは、この日に向けて、教皇の特別謁見をはじめとして、さまざまなことがおこなわれました。
 また、この日には、わたしたちパウロ家族が一年をかけて歩んできた、パウロ家族の「みことばの年」の閉年をも祝いました。
 わたしたち日本のパウロ家族は、この記念を主日である今日11月28日に移して祝うことにしました。コロナ・ウイルス禍の中で直接に集うことはできず、オンラインで参加しているとはいえ、少しでも多くの人がこの記念を祝うことができるようにと願ってのことです。
 今日から待降節が始まります。典礼暦上、新しい一年が始まります。わたしたちも、「みことばの年」の恵みと、アルベリオーネ神父の帰天50周年に力づけられて、新しい一歩を踏み出したいと思います。また、日本の教会では、今日は「聖書週間」の最終日にあたります。日本の教会全体と一致して、主の言葉への思いと宣教の熱意を新たにしたいと思います。
 わたしは、現在、聖パウロ修道会の志願者たちと終生誓願宣立を準備する有期誓願者に授業をおこなっています。2つの授業は異なるのですが、どちらもアルベリオーネ神父の著作を読みながら、パウロ家族の霊性と使命について深めています。あらためてアルベリオーネ神父の著作を読みながら感じることをここで分かち合いたいと思います。
 アルベリオーネ神父は、19世紀と20世紀を分ける夜、つまり1900年12月31日の夜に決定的な体験をします。アルベリオーネ神父自身は、これを「パウロ家族がそのうちにこそ生まれ生活していくことになる固有の使命と霊性にとって、決定的な夜であった」(Abundantes divitiae gratiae suae〈以下、ADと表記〉n. 13)と言っています。当時、アルベリオーネ神父はアルバ教区(北イタリアのピエモンテ州)の神学生でした。1900年は大聖年が公布され、その年の12月31日の夜、アルバ教区のカテドラルではミサがおこなわれた後、聖体が顕示され、徹夜の聖体礼拝がおこなわれました。神学生もそこにとどまって祈ることが許されていました。
 その中で、アルベリオーネ神学生は聖体からの光を受けます。「ホスチアから一条の特別な光、すなわち『だれでもわたしのもとに来なさい』とのイエスの招きを、今までより深く理解する恵みがくだった」(AD n. 15)。この文章を日本語に正確に訳すのは困難なのですが、「ホスチアから一条の特別な光、すなわち『だれでもわたしのもとに来なさい』とのイエスの招きのより深い理解が来た」、つまり光とともにこのみ言葉の理解がくだった、ということを言っています。このみ言葉はマタイ11・28の引用で、アルベリオーネ神父はラテン語で記しています。「Venite ad me omnes」。「みな、わたしのもとに来なさい」(フランシスコ会聖書研究所訳)。当時の北イタリアでは、聖体に対する信心が広がっていて、聖櫃にこの言葉が刻まれていることが多かったのです。
 アルベリオーネ神父は、これを「イエスの招き」と記しており、イエスの「命令」とは記していないので、おそらく「みな、わたしのもとに来てほしい」というイエスの願望、招きとして理解したのでしょう。それは、もちろんアルベリオーネ神父自身に対する招きでもあったでしょうが、文脈から考えると、アルベリオーネ神父は、「すべての人がわたしのもとに来てほしい」という呼びかけとして理解したのでしょう。だから、アルベリオーネ神父は、「今日の使徒とならなければならない」、「主のために、そしてまた、自分が生活をともにするはずの新世紀の人びとのために、何事かを果たすように準備する義務を負っているということを、ひしひしと感じた」(AD n. 15)と述べています。
 聖体の光のうちにみ言葉をより深く理解し、それが教会の教え、人々の訴え、現実と結びつき、イエスの思いを自分のものとし、神と人々のための使命へと駆り立てられていく。パウロ家族の「みことばの年」を終えるにあたって、わたしたちもアルベリオーネ神父が生きたこのみ言葉、聖体とのかかわり、そこからほとばしり出る使命への熱意を身につけることができるように歩みを続けていきたいと思います。

「主の言葉が速やかに駆け巡りますように」

 この講話のテーマは、パウロ家族の「みことばの年」のテーマと同じもの、つまり「主の言葉が速やかに駆け巡りますように」(二テサロニケ3・1)としました。
 この表現が強調している点について見ていきましょう。まず、主語が「わたしたち」ではなく、「主の言葉」であるということです。福音宣教というと、わたしたちが福音を宣べ伝える働きと考えがちですが(もちろん、それも正しいのですが)、この表現では、主の言葉こそが駆け巡っていくことが強調されています。パウロも、アルベリオーネ神父も、この点を強調していました(例えば、一テサロニケ2・2、9、13)。
 また、この表現は「速やかに駆け巡りますように」と述べています。これは、訳文によってニュアンスが変わるのですが、イタリア語では「走りますように」、新共同訳では「速やかに宣べ伝えられますように」、フランシスコ会聖書研究所訳では「速やかに駆け巡りますように」です。パウロは、キリストのうちにおこなわれる信仰生活をしばしば「走る」という言葉で表現しています。日本語では「歩む」とは言いますが、「走る」とは言いません。しかし、パウロはキリストに突き動かされた者は、ゆっくり歩くのではなく、走らないではいられないと理解していました。「速やかに駆け巡る」主の言葉がわたしたちを突き動かすからです。
 さて、このテーマをミサの説教に引き続き、アルベリオーネ神父の体験や言葉と結びつけて深めていきたいと思います。ここでは、「すべて」という視点と「組織」として使命を果たすことの重要性を取り上げることにします。
 アルベリオーネ神父の視点は「すべて」を巻き込む壮大なものです。説教の中で取り上げたみ言葉も「すべての人がわたしのもとに来てほしい」とのイエスの招きでした。主の言葉、神の思い、そして神との深い一致は、キリスト者だけでなく、すべての人に達する必要があります。それだけではありません。主の言葉は、単に教会の中のことがらだけでなく、ありとあらゆることがらに浸透する必要があります。アルベリオーネ神父は、あの19世紀と20世紀を分ける夜にそのことをすでに感じています。「新しい世紀が聖体のキリストと一致して生まれるように、新しい使徒たちが法律、学校、文学、印刷物、風俗習慣を刷新するように、教会が宣教上の新たな飛躍を遂げられるように」(AD n.19)。わたしたちは、全被造物、全存在に、そしてありとあらゆる営みに、み言葉を浸透させるよう招かれているのです。アルベリオーネ神父は言っています。「福音を、人間のすべての思想と知識にしみとおらせること。宗教についてばかり話すのではなく、すべてについて、キリスト者としてふさわしく話すこと」(AD n. 87)。情報技術、通信技術の急速な発展によって、この「すべて」という世界はさらに広がっています。わたしたちはその中ですべてにみ言葉を浸透させるように招かれているのです。
 もちろん、この壮大な視点で「主の言葉が駆け巡る」ことができるように、しかも「速やかに」駆け巡ることができるようにすることは、容易ではありません。だから、わたしたちは「教会」とともに、あらゆる人と連携しながら、使命を果たします。特に、パウロ家族にとっては、単独ではなく、「組織」として福音宣教をすることは本質的な点です。アルベリオーネ神父は、パウロ家族の創立という照らしを受ける前から、組織として福音宣教をしなければならないという照らしを受けていました。19世紀と20世紀を分ける夜の体験について記す際もこのことが強調されています。「組織には組織をもって対抗する義務」(AD n. 14)。「新世紀の寛大な人たちは、きっと自分が今感じているようなことを感じるのではないかと思われるのだった。また、組織に加入することにより、トニオロ氏が繰り返しその必要を力説していたことを実現できるのではないかと思った。氏はよく次のように言っていた。『団結しなさい。もし、わたしたちが各自孤立しているのを敵が見つければ、きっと順々に一人ずつわたしたちを打ち負かしてしまう』」(AD n. 17)。トニオロ氏とは、カトリックの社会思想を導いた信徒で、福者です。
 アルベリオーネ神父は、最初、カトリック信徒からなる組織の設立を考えていましたが、1910年ごろ、男女の修道者の組織でなければならいという決定的な照らしを受けます(AD n. 23参照)。こうして、聖パウロ修道会が生まれ、次第にパウロ家族の諸会が創立されていきました。ですから、組織としての福音宣教という視点は、単に各会の中だけではなく、パウロ家族全体という広がりで理解し、実現する必要があります。さらには、教会という視点、しかもアルベリオーネ神父が考えた「司牧的」視点、すなわち小教区、教区内のすべての人、団体、場所、分野を巻き込むことこそ司牧であるという視点で、組織としての福音宣教を実現するよう、わたしたちは招かれているのです。まさに、対話と交わり、シノドス的なあり方を、わたしたちはみ言葉の宣教において実現していくのです。
 パウロ家族は10の会から成ります。5つの修道会、4つの在俗的奉献生活の会、そして協力者たちの会です。男子修道会は1つだけ、残りの4つの修道会は女子修道会です。聖パウロ修道会と聖パウロ女子修道会はコミュニケーションの世界で、コミュニケーションの手段を用いて、福音を宣べ伝えます。師イエズス修道女会は、聖体、典礼、司祭職への奉仕を使命とし、この使命のうちにみ言葉に仕え、み言葉が駆け巡るように献身します。善い牧者イエスの修道女会は、司牧の分野でみ言葉がすべての人に浸透するという使命を果たします。召命のための使徒の女王修道女会は、み言葉がすべての人に浸透し、すべての人がみ言葉の呼びかけ(=召命)に答えて生きていくように、召命のために奉仕します。在俗的奉献生活の会は、教区に属する聖職者たちの会(司祭であるイエス会)、男性信徒たちの会(大天使聖ガブリエル会)、女性信徒たちの会(聖マリア・アンヌンチアータ会)、夫婦の会(聖家族会)の4つです。社会の中で奉献生活を生きながら、その福音的証しをとおして、み言葉が伝わるよう献身します。そして、パウロ家族の使命に共鳴し、その霊性を生きるすべての信徒たちの会、パウロ家族協力者会です。
「組織」とは、有機的な団体、つまり生きた細胞の集まりであり、それぞれ神から与えられた場所で、全体が連動しながら与えられた役割を果たし、全体として大きな一つの使命を果たします。それは、まさに教皇フランシスコが強調する「シノドス的なあり方」です。
 もちろん、シノドス的なあり方で組織による宣教をおこなうことは、決して簡単なことではありません。違いは対立や誤解を生むこともあります。しかし、違いはそれを知った者にとっては非常に豊かな恵みです。シノドス的なあり方、組織とは、その意味で、真に福音的なものなのです。わたしたちの福音宣教は内容面で福音を伝えるだけでなく、方法においても福音的なものでなければなりません。こうして、「主の言葉が速やかに駆け巡る」ようになるのです。

(聖パウロ修道会 澤田豊成)

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