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最初の宣教師たち

東京・大森、聖パウロ修道会の「ベトレヘム」――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(16)

 三河島で私たちはピアチェンツァ神父の慈父的な保護の下、サレジオ修道会の皆さんが運営する学校や司牧する教会で醸し出している、心からの陽気な雰囲気の中で約三カ月を過ごし、安心して日本語の勉強に励んだ。間もなく私たちは、百余りの主要な漢字とその意味を覚えた。しかし、どんなきれいなバラにもとげがある。私たちの前には、教会当局からの「十字架」と無理解とが横たわっていた。A・シャンボン東京大司教は、私たちのようなタイプの宣教師をこれまで教区に迎え入れたたことがなかった。私たちより前に日本に来た宣教師たちはみな、その使徒的活動を説教や学校教育、伝統的な要理教育(カテケージス)の分野に限っていた。

 しかし聖パウロ修道会の宣教師は、日本では初めてとなる出版、映画、ラジオといった「社会的コミュニケーションを通した福音宣教」という、特別な使命を携えてこの国に来た。しかし一九三四年当時は、私たちの使徒職は新しいだけでなく、「場違い」とまでは言わないまでも、時期尚早と思われていたのだった。なぜなら私たちの活動は、これまでの伝統的な使徒職の活動範囲に、亀裂を生じさせることだったからである。

 しかしマルチェリーノ神父はシャンボン大司教に、聖パウロ修道会の宣教目的と使命について的確に説明し、その疑念を完全に払拭させることに成功した。シャンボン大司教はこの問題について考えをめぐらせ、熟慮した末にこのようなタイプの宣教事業とその手段の重要性を十分に理解し、それが日本人のメンタリティーに適していると考えた。大司教の言葉によれば、「新奇な感じはするが、全面的に評価できる」というものだった。

 しかし、どうしたら私たちの新しい使徒職を教区の評議会のメンバーに理解してもらい、過度な不信感なしに活動を承諾してもらえるだろうか。

 そのためにシャンボン大司教は二つの方法をとられた。すなわち、できるだけ私たちの現状と使徒職の内容を四人の評議員たちに理解してもらうこと。他方、私たち聖パウロ修道会の目的や意志、会の方針がいかに堅固なものであるかを示すために、いささか手荒い、断固とした手段を使われたのである。

 教皇使節マレラ大司教様の方は、もっとあけっぴろげに私たちを支持しておられたが、優れた心理学者でもあるマレラ大司教は、当初は、こうした教会当局の考えに対してはっきり反対はされなかった。しかし、アルベリオーネ神父がバチカンなどのしかるべき筋から何の公式な書簡や紹介状も持たせず、二人の宣教師を東京に”気軽に”派遣してきたことには明らかな不快感を示された。マレラ大司教は言われた。「確かにアルベリオーネ神父は聖なる人であろう。しかし、ここ日本においてローマ・カトリック教会を代表しているのは私たちであり、(彼は)私たちに従わなければならない!」と。

 結論として、私たちは東京大司教の命令で三河島のサレジオ修道会に迷惑をかけないようにしなければならず、日本語を勉強したり司牧の役務を準備するために、東京のどこかに新しく住まいを見つけなければならなかった。あとは神の思し召しのままである。たいへん悲しかったが、私たちは慈愛に満ちたピアチェンツァ神父に別れを告げて、三河島から二十キロほど離れた、東京の南に位置する大森区に住むことになったのである。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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