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マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

62. 第二次世界大戦の試練――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

 一九二〇年代になってもイタリアでは第一次大戦の不況は続き、国民は失業と貧困に悩まされた。それに加え、イタリア議会は、少数党の乱立で、まとまりがなく、これと言った強力な政策が打ち出せずにいた。こうした混迷した政局に貧しい国民が当然望むのは強力な統一政府の樹立と生活の立て直しである。このような時代の波に乗り、着々と支持層を広げていたのが先に述べたムッソリーニ首班のファシスタ党である。

 一九二二年(大正一一年)数万にのぼるファシスタ党員がローマ進軍の大示威運動をおこすと、国王はムッソリーニに政権をゆだね、ファシスタ党を主力とする内閣を組織させた。さらにムッソリーニ大評議会は絶大な権力をもって言論、出版の自由を抑圧するようになった。

 またムッソリーニは、一九二九年(昭和四年)に、一八七〇年(明治三年)以来、国交断絶の状態にあったローマ教皇庁と和睦し、時の教皇ピオ十一世とラテラン条約を結んでカトリックを国教とし、イタリアと教皇の不和を解消してバチカン市国の完全独立を承認した。また、平価を切り下げて通貨を安定させ、資本家と結んで水力発電の開発や重工業の発展に力を尽くした。こうしていちおう政局を安定させていたが、どうしてもイタリア国内の貧困を解消できなかった。そのうえ、一九三一年(昭和六年)から世界恐慌の影響を受けて、再び国民の不満が高まった。

 ムッソニーリは、この不満を国外に向け、国粋主義をあおり、あわせてイギリス、フランスのブロック経済に対抗して貧困なイタリア経済を救おうとした。そのためアドリア海に面し、イタリア系移民の多いフィウメ、つまりパリ講話会議でユーゴスラビア領となった問題の市を合併し、一九三五年(昭和一〇年)にはついにエチオピア侵入を企てるなど、ベルサイユ体制をふみにじる大胆な政策をとり始めた。

 これに対してイギリス、フランスをはじめ国際連盟の諸国はイタリアを侵略国として経済封鎖をおこなったので、イタリアはドイツから必要物資を入れて翌年エチオピアを制服した。この後アルバニアを併合し、スペインの内乱にあたっては、ファシストのフランコ政権をドイツとともに強力に援助した。以上のような全体主義的力を集結して対外侵略に乗り出す動きは、当時の日本とドイツにもあった。この三国政府は、枢軸国として公然と民主主義を否定し、反ファシズム統一戦線に対抗し、一九三七年に防共協定を結び、ついで一九四〇年(昭和一五年)日・独・伊三国軍事同盟を結んだ。

 これより先、ドイツは一九三八年武力によってオーストラリアを併合し、翌年チェコスロバキアを解体してチェコをドイツに編入し、スロバニアを保護国とし、さらにリトアニアからメメル地方を奪い、同年(昭和一四年)九月一日ポーランドに侵入した。それでイギリス・フランスがドイツに宣戦して、ここに第二次世界大戦がはじまった。イタリアは、一九四〇年(昭和一五年)六月十日に参戦した。

 一九四一年十二月八日、日本が英・米に宣戦を布告すると、ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦し、第二次世界大戦は文字どおり世界大戦に発展した。

 ラジオや新聞を通じて刻々と伝えられてくる軍事ニユースに接し、アルベリオーネ神父の胸の中には、あの第一次世界の悲惨な様子が再びよみがえってきたる恐怖におののき、衣・食・住を失った避難民の群れが眼前にちらついた。婦人のすすり泣き、面倒を見てくれる人のいない老人や病人たちの失望の嘆き、戦争孤児のわめき声が悪夢のように耳元で聞こえるようだ。負傷者のうめき声、戦災者のため息に、どうして耳をふさぎえよう。

 聖パウロは「一つの肢体が苦しめば、すべての肢体はともに苦しむ」(Ⅰコリント12・26)というが、アルベリオーネ神父の心は、とくに無防備の町や家、何の罪もない人が攻撃され、戦火に巻き込まれるのを見て、「ラ・ドメニカ・イルストラータ」という聖パウロ会発行の週刊誌に戦争に関する記事を書いた。この週刊誌は戦争中の一九四〇年(昭和一〇年代)後半に五万部に達した。たちまちファシスタ党員が、この週刊誌を手に入れ、神父の記事を読んで、これを国家に楯つく反戦論と決めつけた。

 その記事の内容はクリスマスを機会に一日か二日の休戦をして、兵士たちが静かに、平和に、この日を迎えたらどうかと提案したものであった。反戦論の記事というのは、当時として重大事件である。まかりまちがえば、記者は投獄され、週刊誌は発行停止処分にもなりかねない。さっそく警察から出頭命令が来た。ローマの修道院の週刊誌編集長のヴァレンテ神父は、アルベリオーネ神父とこの件について協議した。アルベリオーネ神父は、そわそわしているこの若い神父に「落ち着きなさい。心配しないで警察へ行って、できれば説明をすれば、何でもまるく治まりますよ」と言った。

 警察では出版物取り締まり担当のスピネリ博士に会った。この人は非常に誠実で筋を通す人であった。警察では、こんな記事をのせる編集長であればさぞかし過激派か革命家であろうぐらいに考えていたが、実際に来たのは、羊のようにおとなしい、やせっぽちの、きゃしゃで小柄なアルベリオーネ神父であった。神父は手短に問題の記事を説明すると、博士も納得し、そのまま週刊誌の発行を継続させ、見守ることにした。その後何のことなく、実際にはあの出頭命令で、博士に霊的指導をしたような結果になった。

 さて日・独・伊の枢軸軍は最初、英・米・仏・ソ連などの連合国軍に大きな打撃を与えたが、しかしその戦力には限界があった。これに対してアメリカの参加をえた連合国軍側は、にわかに勢力を増し、一九四二年(昭和一七年)以来、しだいに総反撃に移った。アフリカに上陸した連合国軍がシシリー島を占領して一九四三年(昭和一八年)イタリアに迫ると、イタリアでは政変がおこり、ムッソリーニが失脚してファシスタ党は解散した。ついでこの年の九月、連合国軍はイタリアに上陸し、ムッソリーニのあとをついだバドリオ政権は無条件降服した。

 しかし、ムッソリーニはドイツの援助のもとで北イタリアに新政府を樹立して、連合軍の北上をはばもうとしたため、イタリア国内の混乱はなおいっそうひどくなった。ドイツ軍はムッソリーニ側のイタリア軍(共和国軍)を指導し、イタリア各地に陣地をかまえていた。イタリアは降服しても、ドイツ軍はイタリア国内で共和国軍と結び、連合国軍とこれを援護するイタリア・ゲリラ部隊員(バルチザン)を敵にまわして戦っていたのである。

 一九四三年(昭和一八年)十月、アルベリオーネ神父は、師イエズス修道女会のシスター二人(チェレステ・フィレッティとジェンマ・ダル・マゼット)に、ローマの南東の郊外アルバノの別荘に行ってそこで生活するように命じた。その別荘はディ・グレゴリオ侯爵が聖パウロ修道会に寄贈したものであった。その別荘を空き家にしていれば、近くに司令部をかまえていたドイツ軍に占領されるかも知れなかった。二人は、いつもの通り、神父の言いつけに従った。

 しかし、一九四五年(昭和二〇年)二月になると、米軍の進撃でアルバノ市が戦場になる危険が出てきたので、別な所にすぐ疎開するようにという市当局の勧めで、先の二人のシスターはローマに戻って来た。

 そのことを知ったアルベリオーネ神父は、この二人のシスターに「直ちにアルバノに帰って、落ち着いていなさい、すぐに何も被害を受けるわけではないから……」と言い聞かせた。

 彼女らは戻って行って、米軍がアルバノ市を占領するまで留まった。戦線は急速に北方へ移動して行った。

 二人のシスターは身の危険を感じながらもドイツ軍の隊長に洗濯物や食物の世話をしてあげたが、その代わりに当時手に入りにくかった食料品をたくさんもらっていた。時々、ドイツ兵は、大爆撃がありそうですから注意しなさいよ、とシスターたちに教えるのであった。

 戦争の終わり頃、その別荘も爆撃され、庭師の家が爆破され、別荘の屋根に幾らか火の粉が落ち、爆弾の破片が、ドアをくだき、聖堂の祭壇まで打ち抜いた。何分か前には、シスターたちが、パウロ会のバンヌッチ神父を招いてミサにあずかっていたのである。

 バンヌッチ神父はシスターたちの配慮で集まったカトリック信者のドイツ兵やポーランド兵に、共同告解させ、罪のゆるしを与えた。彼らは涙を流しながら喜び、シスターたちの配慮に感謝した。それ以後、米軍の空襲は日に日に激しくなり、ドイツ軍のトラック、通信機、兵舎に向けて急降下爆撃をくりかえした。夜はドイツ軍が懐中電灯をともして、シスターのいる別荘付近を警備してまわり、シスターたちには「バチカンのシスター、何もこわがることはありません。爆撃の時には、私たちの防空壕に避難しなさい」と優しく気を遣うのであった。

 一九四五年(昭和二〇年)の三位一体の祝日に米軍はついにアルバノ市を占領し、ドイツ軍を北に敗走させた。教会の鐘がいっせいに鳴り響く中に、米軍が、戦車、ジープ、トラックの乗って堂々とアルバノ市に入って来た。解放された市民たちは、米軍を歓迎し、花束を投げた。これに応えて米軍もチョコレートや石けんなどを市民たちに投げた。

 ちなみに、寄贈された別荘は、現在「大人の召命の修道院」(Casa Vocazioni adulti)となっている。 北イタリアのアルバに近い軍事工業都市トリノはアメリカ空軍の無差別爆撃をうけ、その様子はパウロ会の印刷工場の屋根の上からも眺められた。第二次大戦勃発当初の数年、アルバは戦争といっても夜警のサイレンを聞くぐらいで比較的平和であった。しかし、九月八日の降服以後は、ドイツ軍に反抗してバルチザンがゲリラ戦を激しく展開し、さらにアメリカ軍の爆撃で、にわかに戦場と化していった。

 九月十日、ドイツSS(親衛隊)が、アルバのゴヴォネ兵舎に乗り込んできた。そして、まず反戦気分のイタリア人将校たちを残らず汽車でドイツへ移送し、反戦的な千五百名のイタリア兵はドイツへの移送を待つ間、兵舎監禁され、捕虜扱いされた。反抗する兵隊は、容しゃなく銃殺され、兵舎の庭に、捨て猫のように埋められた。その時のアルバ修道院の院長ティモテオ神父は、シスターを兵舎に送ってイタリア兵の身の周りの世話をさせたり、またパウロ会の司祭一人をつかわして、兵隊の魂の世話もさせた。兵隊たちは、動物用の貨車でドイツに送られる前にみな、パウロ会司祭に告解し、出発の日の朝に、兵舎でのミサにあずかった。

 同年九月二十二日には、連合国側の飛行機がドイツ軍めがけて空襲したが、その爆弾の一つが、パウロ会のアルバ修道院の庭におちた。もしそれが一五分ほど前におちていたら、ちょうど、その庭でわいわい遊んでいたパウロ会の志願者たちのいのちはなかったであろう。その夜もアルバは再び大空襲をうけた。その爆弾の一つは「神の摂理」と呼ばれた修道院の庭におち、庭に面した建物の壁を破損させ、窓ガラスをこなごなにくだいた。さいわい食堂であとかたづけをしていたシスターにも、別室にいたパウロ会員にも、死傷者は出なかった。印刷所の一、二階は軍の命令により病院として接収され、修道院発行の定期刊行物には不当な検閲や差し押さえがなされた。

 翌一九四四年(昭和一九年)七月二十五日の早朝、ドイツSS(親衛隊)の一隊が、急行して修道院を包囲した。そのうち何名かが玄関のドアを荒々しく打ち叩いて乱入し、銃をかまえ、出て来たパウロ会員に「動くな!」と命令した。この大声で階段をのぼっていた者も、廊下にいた者も部屋にいた者も、その場に釘づけにされてしまった。殺されるのではないかという恐怖が、ふっとみんなの心をよぎった。その間、親衛隊は、修道院内をくまなくさがし回った。あとで、わかったことであるが、この家宅捜索は、誰かの間違った告げ口、つまり聖パウロ会の修道院には、通信用の送信機と兵器が隠されているとのでたらめな情報によるものであった。

 さらに同年十一月二日の朝、ゲリラ隊は神出鬼没二アルバのまわりの丘から共和国軍のすきをついで攻撃し、アルバ市を占領しようとした。しかし、その日の午後、トリノから共和国軍の救援隊がかけつけたので、大部分のゲリラ隊は丘の上に逃げ去った。逃げ遅れた一部の隊員は、修道院に逃げ込み、一部は屋上にのぼって反撃の態勢をかまえた。共和国軍はそれとはつゆ知らず修道院に来た。パウロ会の神父たちは、かれらを応接間に通して接待し、あたたかい飲み物を与えた。さいわい共和国軍は、すっかり神父たちを信用し、何も修道院を捜索せずに立ち去った。

 一九四五年(昭和二〇年)三月、ドイツ降服二カトリック月前のある朝、アルバ市の共和国軍が数名修道院にやって来た。そしてパウロ会員全員を庭に集合させ、その中から神学生と新司祭を引き抜いて整列させた。このグループを守備隊の司令部に連れて行き、司令官に「ここには、前線へ移送すべき新兵たちがいます」と報告した。しかし、調査の結果、夕方になってみんな合法的に兵役免除の恩典にあずかっていることが明らかになり、解放された。実はこの調査が行われたのは、神学生でもないのに、兵役をのがれるためだけに神学生の中にまぎれこんでいる若者がいるのではないか、と疑われたからである。

 アルベリオーネ神父が院長をしているローマの修道院にも、戦乱の波は、いやおうなしに押し寄せて来た。ロッセリーニ映画監督の名作「無防備都市ローマ」というネオ・レアリズムの映画にも見られるように、南イタリア(レッジョとアンツィオ)に敵前上陸した連合国軍は北部へ敗走するドイツ軍を追撃してローマに迫り、ローマは上を下への大騒ぎとなった。アメリカ軍の飛行機は、しばしばローマを爆撃した。

 ある日、午後二時ごろ、ローマに警戒警報が鳴った。爆撃機の一隊がホスチアからローマに向けて侵入し、パウロ家の修道院に近づいてきた。志願者も誓願者も防空壕の中に走りこんだ。アルベリオーネ神父は女子パウロ会のシスターたちに空襲を知らせるため小道を通って坂を登った。男子パウロ会と女子パウロ会の修道院は三百メートルくらい離れていたが、その中間あたりで、アルベリオーネ神父の数メートル先に爆弾が落ちた。神父はとっさに身を伏せたが、いくつかの破片が神父の頭すれすれに飛び散り危うく難をまぬがれた。アルベリオーネ神父はその場所を中心に「使徒の元后大聖堂」を建て、聖母マリアがパウロ家の中心に留まるように配慮したのである。その大聖堂は、戦争の災害を聖母マリアの特別の保護によってパウロ会がまぬかれたことを感謝するためのものであった。

 一九四四年六月に米・英連合軍のノルマンジー(フランス北西)上陸によって、ドイツ軍は、ますます圧迫され、東からはソ連軍の激しい反撃で、じりじりとベルリンへ押しかえされた。そしてついに翌年五月二日ベルリン陥落、七日ドイツ軍は無条件降服した。枢軸軍中最後まで残った日本も、連合国軍の集中攻撃をあびて同年八月十五日無条件降服し、六か年にわたった第二次世界大戦に終止符が打たれた。 この混乱に巻き込まれた日本の聖パウロ会は、どうなったのだろうか? 大戦の初期は日・独・伊三国同盟の影響でイタリア人の神父は好遇された。戦争中、パウロ会員たちは、おもに王子教会内の壮年、婦人、青年の指導、日曜学校・幼稚園・小学生学習会の経営、ボーイ・スカウト、ガール・スカウトの育成などをしていた。

 一九四一年(昭和一六年)より政府は各種企業の整備を行ってきた。そしてカトリック系出版社も統合か廃業かの岐路に立たされた。関係者の協議が行われ、昭和一八年十一月東京教区内のカトリック出版社は一つに統合され、名称は中央出版社となった。聖パウロ会が現在の中央協議会の場所にあった中央出版社を運営することになった。

 一九四三年(昭和一八年)七月、ムッソリーニ失脚、つづいてイタリアの連合軍への降服後は、在日イタリア人に対する監視の目は厳しくなった。パウロ会員も私服の刑事につきまとわれたり、スパイ容疑で逮捕され、留置されたりした。

 なお昭和一九年五月聖パウロ会は王子から四谷区(今の新宿区)四谷・若葉の借家(今の若葉修道院の所在地)に引越し、東京麹町の中央出版社に通って印刷の仕事をしていた。ところが昭和二〇年五月二十五日、アメリカ軍の焼夷弾攻撃によって修道院も出版社も灰になったが、会員の中から一人もけが人が出なかったのはせめてものさいわいであった。

 戦後、パウロ会員と新しく入った来た志願者たちは、焼け後を整理し、アメリカ進駐軍から払い下げてもらった旧日本軍の兵舎を解体して四谷まで運び、これで焼け後に質素な木造の修道院を建て、中央出版社の焼け残った地下室から印刷器具や紙類を修道院に運び、ささやかな出版布教を開始した。

 戦後の食糧難で誰もが生きるのが精一杯の時に、会員たちは志願者の養育のために日夜かけずり回った。時には千葉、埼玉、新潟あたりまで食料の買い出しに出かけたり、米軍のキャンプに行ってほとんど乞食みたいに、食べ物だの、衣服だの、毛布だの、椅子だの、机だの、棚だの、ベッドだの、くれるものは何でも貰って来た。その代わり、司祭会員たちは日曜になると、米軍のいるキャンプや宿舎に行っては、米軍信者のためにミサをささげ、秘跡をさずけ、説教をし、寄付を集めていた。

 さらにマルチェリーノ神父は、米国から古着を買い入れ、これを衣類の乏しい人たちに売りさばいた。この古着の代金が、のちの「文化放送会館」の建設資金となったのである。

 出版布教の面では印刷用紙不足の折りにもかかわらず、終戦直後の数か月間に「バラの聖女」、「信心生活入門」など数点の単行本が出版された。昭和二○年十一月三十日、カトリック教区長会議は、週刊誌「カトリック新聞」、月刊誌「声」についてその編集をそれぞれ東京、大阪の両教区に、発行を聖パウロ会に委ねた。また、昭和二二年に若葉修道院の一角に中央出版社の建物がつくられ、パカニーニ神父が全面的に出版事業の指導、経営にあたった。昭和二四年一月からは聖パウロ会の月刊誌「家庭の友」が創刊された。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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